退いて部屋を出た後、舎人たちの、父に何か諫言するような声が漏れ聞こえた。もしかすると、われらの吉野行きを怪しまれたのかもしれなかった。
「どうせ『虎に翼を付けて野に放つようなものだ・・・』とでも言うておったのであろう」
と館に戻った大海人は吐き捨てるように言った。それを聞いてサララはそのとおりだと思った。大海人の髪を見て
「その頭のままでは信用されませぬ」
と、サララが小声でも強い口調で言った。すぐにサララの手で夫の髪を剃り、出家する決意が本物であることを示した。
そして、その日のうちに数十名の一行を率いて旅立った。舎人たちは、宇治橋まで見送りについて来ていたが、その後見えなくなった。夜は、飛鳥の嶋の宮で一泊した。
翌日は、あいにく雪が雨に変わる悪天候になった。とぼとぼ歩いていた馬が、ぬかるむ山道でとうとう歩みを止めてしまった。馬を休ませたかったが、雨を凌ぐ場所もなかった。まだ、追手が来ないとも限らないのに、こんな場所で立ち止まってはおれぬ、と、サララが焦っていると、大海人が急に歌を詠み始めた。
「~み吉野の 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける
間なくそ 雨は降りける
その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと
隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を~
どうや、無事、吉野に着いて生き延びたら、今日のことをこんなふうに詠もうと思うが、出来はどうやろう」
「思いつつぞって・・・。あぁ・・・、こんな時にも、あなたの思いとは、今日の日をどのような歌で残そうか、ということ・・・。今それどころではないでしょう・・・。われらを守るのは、あなたやないですか。しかも何と寂しい歌やこと。こんな時に、ますます悲しうなるだけやないですか・・・」
情けない・・・と、落胆したが、むしろ、この大海人の後ろ向きで気弱な歌は、この道中、ずっと寒さと空腹に耐えていたサララの心に、小さな炎を点した。
突然、輿から降りて、馬の背で寒さに震えている、まだ御年十にも満たぬ草壁皇子を代りに輿に乗せ、自ら手綱を引き、歩き始めた。他の馬もつられてやっと歩き始めた。
ぬかるむ山道を必死で踏みしめながら、サララは心の中の炎がどんどん大きく燃え盛っていくのを感じた。髪もずぶ濡れで足元は泥まみれだ。名家の娘に生まれたサララにとってこんな屈辱は初めてだ。この時、サララは、今日のこの惨めさも悲しみも、これからを生き抜いていく強い気持ちに変えなくては、という覚悟ができた。もう少しも寒くなかった。手綱を強く握って一歩ずつ踏みしめて、涙を雨で洗いながら吐き出すように叫んでいた。
「天の神様お聞きください。神様に誓います。私はこの屈辱に決して負けません。家族に二度と凍えて、ひもじい思いはさせません。きっと生き抜いて見せます。そのために、嘘をつき、盗み、だまし、人をも殺すでしょう・・・。神様に誓います。私は二度と寒さに泣きません。夫を、我が子を、家族を、必ず私が守ってみせます・・・」
(これ、聞いたことがあるような・・・?そうだ、『風と共に去りぬ』のスカーレットみたいだわ)
小桜はこんなことをつぶやきながら、どんどん物語に夢中になっていった。
つづく