画面には別の景色が映った。新緑の里に浮かぶように現れたのは古代の京(みやこ)だ。
また明信の声。
〈ここは六八六年の飛鳥どす。
時の帝は、幼名を大海人皇子と呼ばれはって、後に「天武」とおくり名されはった天皇。この時は、五十六歳どした。皇后の諱は鵜野讃良(うののさらら)。後に「持統」とおくり名されはったお姫さま。この時、四十一歳どした。
天皇とはいうても、このお方は、もともと普通の人と同じ心を持つ、ひとりの女やったし、妻、母、祖母として懸命に生きはったお方として、この物語では親しみを込めて『サララ』とお呼びいたします。
ほな、次の物語の始まりどす 〉
わずかな鳥の囀りだけが聞こえる静かな朝、飛鳥浄御原宮に、戸を閉める音が静かに響いた。廊下に出たサララは、美しい薄紅色に透ける生地の領巾(ひれ)を背中に滑らせ、裳(も)は、浅紫、深緑、浅緑が交互に縦模様を織りなしていて、上等な絹の生地は皇后に相応しく高貴な身なり。いつものようにエビノコ郭と呼ばれる大極殿で天皇の代理として朝の行事を終えてから、内裏に戻り、寝所(しんじょ)で臥せっておられる天皇を見舞って、渡り廊下に出たところだ。
「帝の病が急に重うなってきた」
サララは、大きなため息をついた。階段を降りるサララの、肩からすべらした領巾(ひれ)の両端が、裳(も)の裾の両側に垂れて引きずられている。いつもなら、速足で歩くサララの両脇でひらひらと舞うはずなのに・・・。
「夫(つま)の命が消えつつあるのを目の当たりにしておるというのに、われの胸の内は、ただただ吾が子、草壁に帝のあとを継がせたい、という願いでいっぱいや」
と、サララはため息まじりにつぶやいた。
にわかに、頭上でひばりの鳴き声が響いた。サララが、ふと空を仰ぐと、宮の西にある甘樫の丘を覆う新緑が目に入り、まばゆかった。冬枯れで落ちた古い葉に代わって芽吹いた小さな芽が淡い萌黄色に木々を染めていたのは、ついこの前のことだ。今はもう艶々とした立派な若葉が、夏の予感に薫る風に、さわさわと揺れて、昇ってきた朝日に照り輝いている。
「そうや・・・、われは何としても、草壁を即位させる。他の王族たちを抑えて従わせるのは、あの子が受け継いでおる、この上ない血統だけや。あの子が他の皇子にかしずくことなど断じてあってはならぬ。そんなことになったら国が乱れるに違いない。百済の国もそうやって国力を失っていったのや。皇子をヤマトの日のもとに明るく煌めく天皇にしよう・・・。たとえまだ二十四歳の若き皇子であっても、誰にも邪魔はさせぬ・・・」
天を仰いで誓おうとしたその時、急に雲に遮られて日が陰った。
「そうやった・・・、あの子もちょうど、その年頃やった・・・」
サララは重い足取りのまま、草壁皇子の乳母、道代の部屋を訪れた。
「これはこれは、、、朝から急なお出ましで、一体どうなさいましたか」
道代が驚いて立ち上がり、サララの足元に膝をついて出迎えた。
「帝の病がにわかに重うなって、この不安な胸騒ぎをどうすればよいものかと、思案するうち、そなたと話がしとうなって来てしもた」
「まあ、帝はそれほどまでお悪いのですか」
「ああ、そうや。ほんで、われは歩きながら草壁の行く末を考えておった。そしたらあの皇子のことが思い出されて・・・。あの壬申の年の戦。われの父上がお決めになった皇太子を、夫が討って、天皇の座を奪い取った戦や。あの皇子もちょうど二十四やった・・」
サララは道代が空けた上座に座り、話を続けた。
「大海人を産んだ母親は、元は高句麗国王の妻やった。その妻は高句麗王と別れて、ヤマトの天皇に嫁ぎ、まもなく孕んでおることがわかった。
そして生まれた子が大海人やった。そのために、どちらの子かわからぬようになってしもうたのや。高句麗王は、倭王のもとで、我が王子を産むのだ、と他国に嫁ぎ行く妻を抱きながら耳元でささやいたのやろうか・・・。
本当はどちらの子なのか・・・と、周りの者がみな、そんな目で見ておったので、大海人は、それを何とのう自然と知るようになったのや。
夫、大海人は、そんな、はっきりせぬわが身の出生を、内心、負い目に感じておったから、なるべく、おとなしうしておったそうや。
人質で来たはずやのに父王や周りからえろう大切にされておった、まん中の義兄(あに)の前では特にそうやった。義兄は、やたらと気が強うて、腰にはいつでも黒塗りの鞘の刀を佩いておったから、誰もが恐れおののいて気安う近づく者はおらなんだそうや。
父皇の死後、皇子たちが成長するまで、と一旦、大海人の母が天皇位を継承したのやが、その義兄は、ある日、仲間と謀って大臣父子を殺し、叔父を天皇に挿げ替えた。
そしてやがては、その天皇をも見放して、自分の生母を天皇にした。
しかし、
祖国の百済国が滅ぶと、将軍が迎えに来て最後の『百済王』を名乗ることになった。
つづく

