日本人の思想

日本人の思想

武士は食わねど高楊枝。

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先日、3歳の息子と6歳、8歳の甥っ子、計3人の子供を連れて「キッズランド」なるところへ遊びに行ってきた。

「キッズランド」とは要するに室内の遊園地である。大きなイベント会場に色々な遊具を配置して、子供を遊ばせるところである。

平日に行ったにも関わらず、なかなかの人出だった。だから人気の遊具には列ができる。我々も人気の遊具に乗るのに20分くらい並んだ。

列の後ろを見ると、中年の男性が一人で並んでいた。子供はいない。順番が近づいてくると、その中年男性は携帯電話を取り出し、電話をかけた。どうやら、子供を呼び出しているようである。なるほど、列には自分が並び、順番が近づくと他で遊んでいる子供を呼び出すという作戦らしい。

なかなか頭の良いやり方だが、「なんか違わないか」と思ってしまった。我々の子供3人はけなげに20分待ったのである。しかし、後ろの男性の子は他で思いっきり遊んで来て、順番が来たら横入りである。なんか違うだろ~。

しかし、その父子の様子を見ると、なんかおかしい。二人の間に会話がない。父親はずーっと携帯電話をピコピコさせている。子供が遊具で遊んでいる間にも、写真を撮るどころか、声を掛ける様子すらない。携帯ピコピコである。

なるほど世の中とはそんなものである。うまいことやっているように見えて、うまいこと行ってないのである。この世の中でうまく立ち回る人間は多いけれど、その代価というのも当然支払わなければならないのである。




私には3歳の息子がいる。子供が生まれてから、今回で4度目のクリスマスになるが、我が家でも毎年「サンタクロース」の行事を行ってきた。朝起きたら「枕元にプレゼントが!」というあれである。

なんでもないように思えるが、しかし去年まではこのことでかなり自分の中で葛藤があった。というのも、プレゼントを枕元に置くのは紛れもなく私たち親である。しかし、それを「サンタクロースがプレゼントをくれた」と息子に伝えるのである。これは明らかな嘘である。おそらくそんなことにこだわらない人の方が大多数であろうが、私としてはこの「明らかな嘘」をどのように自分の中で消化するか、に苦悩した。

だが、答えが出たのである。それは、「サンタクロースとは一つの思想である」ということである。

サンタクロースというのは、赤い帽子、赤い服を着て、真っ赤なお鼻のトナカイさんの引く橇に乗ってやってくる、というのがおそらく全世界共通の認識であろう。しかし、それはあくまでもイメージである。

実際のサンタクロースというのは、「子供が寝ている間に子供の枕元にプレゼントを置くこと」それ自体がサンタクロースである、と私は位置づけたのである。その中には親が、「サンタさんがトナカイの引く橇に乗ってやってくる」と語ることも含まれている。つまり、サンタクロースとは一つの概念であり、思想なのである。

だから、「サンタクロースが煙突からやってくる」というのは決して嘘ではない。親が子供にそう言い聞かせること自体が「サンタクロースの思想」に含まれているのである。子供が大きくなったら、「サンタクロースはお父さんじゃないか!」というかもしれない。しかし我々はそれにひるむ必要は無い。もしそういわれたら、「サンタクロースというのは一つの思想なのだ。私はその思想の体現者に過ぎない」と答えればよい。

そのような考えにたどり着くことによって、私はある種の自由を得た。決して「サンタクロース」は子供に嘘をつくことではないし、子供に夢を与えることでもない。子供に昔話を語って聞かせてやることと、ほとんど同意であるといってよい。


急に数学が勉強したくなった。書店に立ち寄り、高校の数学の参考書を購入してみた。

私は韓国に住んでいるため、当然韓国の数学の参考書である。どれを選んでいいか皆目検討がつかないが、とりあえず一番オーソドックスっぽいのを選んだ。「概念編」と「類型編」の2冊が一冊になったもので、おそらく「解説」と「問題集」が一冊になったものと思えばよいと思う。

早速家に帰って参考書を開く。最初の項目は「集合」。集合は高校生の時勉強したはずだが、その水準をはるかに越えるものが出てきた。ほとんど自分にとっては初出の事項である。正直言って、全然わからない。

息子が就寝した後じっくり参考書と格闘してみると、徐々に理解できるようになった。しかし、それにしてもレベルが高い。一番無難そうなものを購入したのにどうしてだろう。韓国の数学はこんなにも難しいものなのか…と思ったら、妻が「難しいの買ったね」と一言。

というのも「高等数学」と表紙に書いてあったのだが、私はこれを「高等学校の数学」と理解してしまったようだ。しかし実際には「レベルが高等な数学」の参考書であるらしい。道理で難しいわけだ。

しかし、レベルの高い韓国の高校生はこれを解くのだから、私も負けているわけにはいかない。少しずつ挑戦したい。

ちなみに私は思いっきり文系である。高校では数学は不得意科目であった。しかし、何故か最近になって「数学熱」が高まってきた。考えるに、私は「数学が好きなんだが、あまり得意ではない」ということなんだろう。もう今となっては受験も何も関係ないので「下手の横好き」ということで、趣味なのである。








ある本を読んだ。それはその人の遺作となった作品である。私はこの人の作品(というか小説ではないので作品と言ってよいのかわからないが)が大好きで、出版されている本は多数に上るのだが、そのほとんどを読んでいると言っても過言でないくらいのコアなファンである。

遺作、ということで感慨深く出勤の地下鉄の中で読んだ。それを書いた人は、連載途中で亡くなってしまった。だから中途半端な形で出版されているのだが、まあそれはよい。問題は「あとがき」である。

亡くなった人があとがきを書けるわけがないので、その奥方が代わりにあとがきを書いている。特になんということはないのだが、「さいごに…」と続いてどんなことを言うのだろうか、と思ったら、出版してくれた会社の人に感謝の辞を述べているのである。

私は本を読むたびに、この手の内々の人への「感謝の辞」には辟易する。本には映画やテレビ番組のようにエンドロールがないから、その本の出版に尽力してくれた人を活字として記録しておきたい、というのは痛いほどわかる。しかし、それを私たちのような読者に見せなくてもいいのではないか。

もし本当に感謝しているのであれば、感謝の手紙と菓子折りでも携えて、出版社へ挨拶しに行けばいいのである。なぜ、内々の個人的な感謝の辞を我々読者が読まなければならないのか。「さいごに…」の後に続くのは、読んでくれた一般読者へのお礼ではないか。「さいごまで読んでくださってありがとうございます」とか、この作品の場合は偉大な人物の遺作なのだから読者に対して、この作品のみならず、全ての故人の作品を愛してくれたコアな読者をねぎらう一言があってしかるべきである。

時々本を開くと、「●●に捧げる」なんて書もある。これは言語道断である。「●●に捧げる」と書いてある時点で、それは私に向けて書かれた書ではないのである。これにはげんなりする。もし、どうしてもそう書きたいのなら、出版したあとで、個人的に第一ページに手書きでコメントを書いて「●●」に贈ればよいではないか。もし「●●」が故人なら、墓にでも埋めてやればよい。

本屋に並んでいて誰でも気に入れば購入できるような本に、そんな内々のことは書いてはいけないのである。



洗濯機の分解掃除を試みた。5年ほど使っていて、一度も分解したことが無いのでかなり汚れているはず。特に手引きをしてくれるものはないが、常識的に考えればできるはずだと思い、頭を使いながら少しずつ分解していった。

しかし、洗濯槽を固定している大きなナットが外れない。外れないというかナットの大きさが38ミリ程度あり、それに合う工具が我が家にはない。ここで一時断念。

翌日、この38ミリのナットを外すための工具を探しにでかける。おそらくスライドハンドルなるものが必要。ホームセンターに行けば売っているだろう。しかし、ここは韓国である。

とりあえず近くの大型スーパー2件に立ち寄る。工具は売っているが、小さなナットを外すようなものしかない。次に個人でやっているような小さな工務店(韓国ではチョルムルジョムという)に行く。2件回ったが目当てのものはなかった。

家に帰ってインターネットで探す。あるにはあるのだが、38ミリのソケットが入るものになると、ハンドルの長さが50センチになってしまい、それでは洗濯槽の中に入れることができない…。

結局、もう一息のところで断念した。方法はあるにはあるが、全部ネットで探すのに疲れた。

韓国にいると、日本でなら簡単に手に入りそうなものが意外に入手が困難であることが多い。これは韓国が不便というより、日本が便利すぎるのであろう。こういったことは日本に住んでいては絶対に気づかないことである。

洗濯機の分解をしつつ、日本の生活の便利さを痛感した。



今朝は風が強かった。それを窓から見ながら考えたが、風というものは非常におもしろいものである。

風は空気の流れだから目で見ることができない。目に見えるような気もするが、空気が見えないのと同じで当然風も見えない。しかし風は確かにある。

では、我々はどうやって風を認識するのか。それは風に拭かれて揺れる木の葉を目にしたり、頬に優しく触れる感触を感じたりするからである。つまり、風は何かに影響を与えたことを以ってはじめて我々にその存在を示すものなのである。

我々人間も同じようなものではないか。我々は確かに存在している。しかし、風と同じく私でない他の誰かに影響を与えることによってのみその存在を確認できるのである。


現在3歳9ヶ月の息子がいる。うちは私も妻もフルタイムの共働きなので、家事も育児も二人で協力して行っている。実際に育児をしたり、家事をしたりする時間は私の方が長いが、子どもや家庭に対する責任感とか精神的負担は二人とも同じくらいだと思っている。

子どもと共に生活をしながら感じることだが、育児を難しくしている要因の一つは「他人の目」である。簡単に言うと、子どもが変な行動や社会的規範から離れた行動を少しでもとると、「親の教育がなっていない」とか「どういう育て方をしているのか」という目で見られる、ということである。これはおそらくかなりの人が感じていることである。

確かに、人に迷惑をかけるといった行為を子どもが行ってしまった場合、多くの場合は子ども本人でなく、親に責任があることが多い。しかし、必ずしもそういえないこともある。

以前、私たち家族と、私の知り合いと一緒に外食をしようとしたときのこと。当時息子はまだ2歳だった。最近は外食してもだいぶ大人しく振舞えるようになってきたが、当時は親の言うことを聞かず、自由奔放な振舞いをしていた。だから、基本的に我々家族は外食というものをしなかった。

しかし、どうしても久しぶりにこの知り合いと会わなければならなくなってしまった。子連れで。だから私はその知り合いに責めてもの願いとして、「子供が遊べる場所がある店を」とお願いした。そんな店ならなんとか食事ができそうな気がしたからだ。しかし、その知り合いはこう応えた。「そんなの親が騒がないように教育しなきゃ!」。その一言で私はその知り合いが一気に嫌いになった。それがまだ独身の人から発せられた言葉なら、まだ理解できるが、その人も子供がいるのである。

ここではっきりしておくが、2歳児が外食して大人しくしていられないのは、別におかしなことではない。もちろん大人しく座って食事を楽しむ子もいるだろうが、だからと言って、そうじゃない子に問題があるというわけでもない。

そもそも何故、我々は公共の場で大人しく静かにしていなければならないのか。何故、走り回ったりすることが駄目なのか。それは他人に迷惑が掛かるからである。だから、公共の場でそれなりにマナーを守れる人、というのは少なくとも「他人に迷惑をかけるのはよくないことである」という認識があるということである。2歳児にそういった確固とした認識があるだろうか。(大人しくできる2歳児もいるが、これは単に性格的に大人しいか、親が恐いかのどちらかである)

つまりこれは、心の成長の問題なのである。「人に迷惑をかける」というのがどういうことなのか、それを理解するに足る心が育ってきているかの問題なのである。

生まれたばかりの子は首が据わっていない。据わりだすのは早い子で生後3ヶ月くらい、普通は4,5ヶ月くらいだ。またうちの息子は生後10ヶ月で歩き出した。しかし普通は1歳の誕生日前後に歩きだすのが普通で、遅い子は1歳6ヶ月くらいになる子もいる。

つまり体の成長時期というのは個人差があるのである。皆それをよく知っているはずである。しかし、心の成長時期に関しては皆あまり語らない。「他人に迷惑をかけてはいけない」ということを理解できるようになるのだって、個人差があるのだ。

成長時期に個人差があるものを、叱ってはいけない。生後2ヶ月の子供に「早く首据わらせなさい!」と叱る親がいるだろうか。1歳過ぎて歩き出せない子に、「早く歩き出しなさい!」という親がいるだろうか。

おそらく、親の教育の仕方で成長時期を早めることができるという誤った考えがあるのだろう。首を早く据らせる秘訣がないように、公共マナーを守らせる秘訣もない。そんなの絶対にない。変な言い方をすれば、「運」である。しかしその成長の時期に個人差があることを認めたがらない人が多すぎる。

端的なのは「オムツ外し」だ。トイレトレーニングなんていうけど、これもがんばったからって早くオムツが早く外れるものではない。だから「オムツはずし」というのは正確でなく、「オムツ外れ」というのが正しい。オムツを「外す」ために叱られたりする子どもは気の毒である。だって、「首を早く据わらせなさい!」というのと同じなんだから。

子供の成長には体の成長があるように、心の成長もある。我々はよくそれを考えておかなければならない。だから、外食して人に迷惑をかけるような子供であれば、外食に連れて行ってはいけないのである。叱るべき点は「子供がマナーを守れない」点ではなく、「そんな子供を外食の場に連れてきた」ことである。




出勤する際にふと思ったんだが、私はエスカレーターから降りて一歩目を踏み出す時、必ず左足を出す習性がある。これは何日にも渡って確認したことだから間違いない。

しかし、何故左足から出るんだろうか。私は足も右利きだから、右から出ても不思議ではない。何故なら右足が利き足だということは、左足が軸足だということであるからだ。

陸上競技場を思い出してもらうとわかるが、普通トラックは反時計回りに回ることになっている。反時計回りのトラックを回るということは、左足が軸足になるということである。世の中には足も右利きが多いので、トラックがそうなるのは当然である。

では、何故私は左足が先にでるのか。もし左足が軸足になるなら、エスカレーターを降りる際には右足が出ても良さそうなものである。ただ、不思議なことに行進をする際には普通左足を先に前に出すのが普通である。私は昔自衛隊にいたのではっきり記憶しているが、「進め!」の号令で前に歩き出す時、最初の一歩は左足を出すということになっている。これも「左足が軸足である」ということを念頭に置いた場合には、理解が難しい。

しかし、私の足は左足が先に出るのである。



東北地方で大きな地震が起こってからもう2年ほどになる。あの地震の時の日本人の振舞いは世界から賞賛された。秩序をしっかり守り、誰一人自己中な行動をせず、皆で協力して大変な時期を乗り越えたのである。私も日本人であるから、そういった賞賛の声を聴くのは嬉しいものである。

しかし多くの人は勘違いしているが、そういった賞賛に値する行動は「日本人が礼節を知る」高いモラルを有する民族だからなされたというものでもない。もちろんある程度はそういった側面もあるだろうが、実際は日本人が生き残るための「クールな計量」がしっかりとできているためである。

考えてみよう。こないだの地震のように、生きるか死ぬかのような悲惨な出来事が起こった。運良く自分は今生き残っているが、今後どうなるかわからない。食べ物だって充分にないし、寒さをしのぐ設備も心もとない…。このような状況で、自身が生き残るための一番確率の高い方法は、同じ状況の見知らぬ人と力を合わせることである。そのためには自己中心的な行動は極力避けなければならない。自分勝手な行動をしていては、他人の協力は得られないからである。

そういった生き残るためのクールな計量の結果が、世界が賞賛する日本人の行動としてあらわれたのである。だから、真に世界が賞賛しなければならないのは、決して礼節を知る日本人のモラル・民度の高さではなくて、瞬間的にクールな計量ができる頭の回転の速さなのである。

子供の遊びに付き合っていると、どうしてこんなに体力があるんだ、と思うときがある。真剣に息子と向かい合うと、半日くらいでこちらがヘトヘトになる。

まあ一つは、大人としては子供の遊びに「付き合ってやっている」と思うからであろう。自分が心の底から楽しめる遊びであれば、そこまでの疲労感は感じないはずである。

しかしそれよりも大きいと思うのは、子供は「ペース配分」をしていないから、だと思う。極端な話、特にうちの息子くらいの3歳児であれば、疲れたら眠ってしまえばいいのである。その辺で眠ってしまっても、それが家の外であろうと親が抱いて帰ってくれる。

我々大人は違う。疲れてもどうにか自力で家にまで帰らなければならない。車を運転する人はある程度余力を残しておかないと大変なことになるかもしれないし、徒歩だからといって周囲への警戒を怠るわけにはいかない。また、家に辿りつきさえすればよいというものでもない。人によっては帰宅した後で食事の準備もしなければならないし、子供の世話もしなければならない。もしもの場合に備えて、ある程度の力は常に残しておくべきであろう。

…つまり大人が子供より疲れてしまうのは、自己防衛機能を生活トータルで働かせているからである。だから、もう少し言うと、それなりの年齢になると疲れやすくなったというのは単に体力の衰えだけの話ではない。

20歳の気ままな大学生と40歳の妻子持ちの人間では、ペース配分はかなり変わってくる。神経を使うことが多くなればなるほど―もちろんそれ自体で消耗するということもあるが―余力を残しておかなければならないのである。

大人になるということは、ペース配分をできるようになるということである。一つのことに集中しすぎて周囲への警戒を怠ったり、道端で寝入ってしまうような人間を「大人」とは呼ばない。