韓国は教育熱が高い。塾通いは当たりまえ、中学生の義姪さえも家庭教師をつけている。親は「12時前には寝かすな」と学校から言われているらしい。全く困ったものである。(ちなみに私の妻は韓国人である)
教育熱が高いのは、韓国人が勤勉な民族であるからというわけではない。学歴=職業つまり、それが給与の高さに比例すると考えるからである。つまり大部分の韓国人の頭の中には、
良い成績をとる → 良い学校に入る → 良い会社に入る → 人生勝ち組
という必勝パターンが幼少の頃から刷り込まれているのである。
ある程度金銭的な余裕があった方が人生楽しいだろうし、お金が全てではないが、ないよりあった方がよろしい。そこまではいいだろう。だが、こういう上記の人生の必勝パターンを常に頭の中に描いている親たちに欠如していることが一つある。それは、自分の子女が必勝パターンから漏れてしまった場合について、である。
努力してみな良い大学に入り、みな良い給料をもらえるようになれれば問題はないのだけど、世の中それほどあまくない。できるものもいれば、できないものもいる。親は自分の子供が必勝パターンからドロップアウトした場合、について考えておかなければならない。もし、必勝パターンが全てで、それが唯一の価値観であるという態度で子供に接していた場合、そこからはみ出した子供たちは何を頼りに生きて行くのだろうか。
「勉強しないとろくな人生待っていないぞ。」といわれて育った子供が、勉強はしたが望んだほどの成績を得られなかったとしたら、やはり彼もしくは彼女に待っているのは「ろくな人生」である。もちろん成績がよくても「ろくな人生」しか歩めない人間も多数いるだろうが、成績が悪くて「ろくな人生」を歩めなかった者は、その原因を自分の成績の悪さに求めるしかない。すると、必然としてその子が大きくなって自分の子供を得たとする。その暁にはまたしても「勉強しなさい!」と言わなければならないことになる。だって、そういう風な価値観で育てられてきたんだもん。何という負のスパイラル。
だから、親が子供によい成績を求めるのはかまわない。だが、必ず自分の子が「よい成績を得られなかった場合」のリスクヘッジをしておかなければならない。成績が悪くてもいくらでも良い人生が歩めるんだよ。人生はそんなことで決まらないんだよ。と。
だってそうでしょう。親が子に求めるのは、全国平均より多い給料ではない。その子が幸せな人生を歩むことである。もちろん幸せな人生を歩むためには、多少人より多い給料があったほうがいいかもしれない。しかしだからといって、「給与」=「幸せ」と子供の価値観を一元化してしまうことは、それほど懸命な親の態度とはいえないだろう。
真に良い親とは、子供がどちらに転んでも幸せになれるように(というか幸せだと感じられるように)、防御戦を幾重にも張り巡らすことの出来る、つまりリスクヘッジのできる人間のことを言う。
今朝、出勤時間に遅れそうだったのでタクシーに乗った。普段は地下鉄と徒歩。そうすると大体45分くらいかかる。しかし、タクシーに乗るとかなりショートカットができるのでものの10分で職場まで到着する。しかも韓国のタクシーは安いので、時間や余裕がない時はしばしば利用している。
今日乗ったタクシーはひさびさに弾丸タクシーであった。韓国に来て丸9年。タクシーの荒い運転には慣れているのだが、今回は少し身震いするほどだった。片側三車線の道をあちらに行ったりこちらに行ったり、結果的にうまいことすり抜けていくのだが。
荒っぽい運転をする人を見るといつも、何故この人たちは他人をそこまで信じることができるのだろうか、と思う。今日のタクシーの場合もそうだが、この運転手は年も60代くらいだと推定されるが、かなりのベテランドライバーである。自分の運転技術には自信があるのだろう。だからスピードも出す。しかし、交通事故というのは自分だけ気をつけていれば防げるというものでもない。
先日もテレビを見ていたら、「飲酒運転の車が中央線を超え、対向車と正面衝突」という事故について報道していた。いくら気をつけて運転していても相手の不注意で事故は起こるのである。しかし、荒っぽい運転をする人たちは、こういった「他人の不注意」を勘定に入れてないのではないかと思う。
私の家には車がない。運転をしない(免許はある)。それは相手を信じられないからである。もちろん全く信じていないわけではない。ほとんどの人間は信号も守るし、車間距離もとる。しかしわずかだが、それができない人間がいる。特に韓国には日本よりもその割合が高い。平気で信号を無視する運転者がいる。私はそういったマナーを守らない輩のせいで怪我をしたり、傷つけられたりという事態は避けたいのである。だから運転をしない。
「運転をする」というのはある種のゲームに参加するということである。
事故は必ず起こる。だからもし事故に遭って、それが自分に過失のない事故だったとしても、それはゲームに参加した場合に生じうる代価であると肝に銘じておかなければならない。「運転をする」という選択をした人間は、自分が悪くなくても犠牲者になるかもしれないというリスクを承知していなければならない。もちろんそれは運転をしなくても、歩行者でもそうだ。歩道を歩いていたって車が突っ込んでくることもある。しかし、犠牲者となる確率は「運転をする」という選択をした場合に比べてはるかに低まるはずである。
タクシーの運転手が一般人に比べて運転能力が高いのは認める。毎日運転しているのであれば当然である。だが、事故は相手の不注意ででも起こる。その意味を考えていなければならない。いくら安全運転をしていても、対向車がはみ出していたらそれはしょうがない。しかし、「しょうがない」事故以外のリスクをできるだけ減らすのがプロである。今日の運転手にはそのプロ精神が感じられなかった。
運転技術の高さは認めよう。だが、せめて後部座席のシートベルトくらいちゃんと使えるように整備しておくべきであろう。
今日乗ったタクシーはひさびさに弾丸タクシーであった。韓国に来て丸9年。タクシーの荒い運転には慣れているのだが、今回は少し身震いするほどだった。片側三車線の道をあちらに行ったりこちらに行ったり、結果的にうまいことすり抜けていくのだが。
荒っぽい運転をする人を見るといつも、何故この人たちは他人をそこまで信じることができるのだろうか、と思う。今日のタクシーの場合もそうだが、この運転手は年も60代くらいだと推定されるが、かなりのベテランドライバーである。自分の運転技術には自信があるのだろう。だからスピードも出す。しかし、交通事故というのは自分だけ気をつけていれば防げるというものでもない。
先日もテレビを見ていたら、「飲酒運転の車が中央線を超え、対向車と正面衝突」という事故について報道していた。いくら気をつけて運転していても相手の不注意で事故は起こるのである。しかし、荒っぽい運転をする人たちは、こういった「他人の不注意」を勘定に入れてないのではないかと思う。
私の家には車がない。運転をしない(免許はある)。それは相手を信じられないからである。もちろん全く信じていないわけではない。ほとんどの人間は信号も守るし、車間距離もとる。しかしわずかだが、それができない人間がいる。特に韓国には日本よりもその割合が高い。平気で信号を無視する運転者がいる。私はそういったマナーを守らない輩のせいで怪我をしたり、傷つけられたりという事態は避けたいのである。だから運転をしない。
「運転をする」というのはある種のゲームに参加するということである。
事故は必ず起こる。だからもし事故に遭って、それが自分に過失のない事故だったとしても、それはゲームに参加した場合に生じうる代価であると肝に銘じておかなければならない。「運転をする」という選択をした人間は、自分が悪くなくても犠牲者になるかもしれないというリスクを承知していなければならない。もちろんそれは運転をしなくても、歩行者でもそうだ。歩道を歩いていたって車が突っ込んでくることもある。しかし、犠牲者となる確率は「運転をする」という選択をした場合に比べてはるかに低まるはずである。
タクシーの運転手が一般人に比べて運転能力が高いのは認める。毎日運転しているのであれば当然である。だが、事故は相手の不注意ででも起こる。その意味を考えていなければならない。いくら安全運転をしていても、対向車がはみ出していたらそれはしょうがない。しかし、「しょうがない」事故以外のリスクをできるだけ減らすのがプロである。今日の運転手にはそのプロ精神が感じられなかった。
運転技術の高さは認めよう。だが、せめて後部座席のシートベルトくらいちゃんと使えるように整備しておくべきであろう。