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絵師 高橋天山ブログ

日本画家が語る日本文化の素晴らしさ
菱田春草を語る

    小堀鞆音〔こぼりともと〕

大観や春草等と同時代に活躍した、巨匠です。この画伯こそ

知る人ぞ知る大和絵の本道。武者絵の第一人者であることは間違いありません。



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重ねて、嫡孫であられる、東大名誉教授、小堀桂一郎先生の記念講演がありました。


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小堀先生は記念講演の配布資料の中で次のように述べておられます。

或る制作が美術作品として成功してさへゐれば、それが全てであるとも言へるのだが、
その際に、
(中略)史傳上の傾転の選択やその扱い日に誤りが無いかどうかといふ問題は、
観者の方に、その扱い様の當否を判定し得るだけの歴史的知識があるか否か、
その様な高い水準を有する観賞者の納得をかち得るだけの知識教養を以て畫家が制作に
臨んだか否か、の問題に帰着してしまふ。

さうしてみれば、或る一時代に於いて、歴史畫がそれ自體高い藝術的達成を示し得、
對世間的にも人々の好尚に應へての盛行を齎(もたら)し得たかどうかといふことは、
畢竟(ひっきょう)その時代の美術愛好者達に於ける歴史意識及び知識の深浅の反映であるといふ論理になって来よう。


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【つまり、歴史的な事象を扱う歴史画というものは、その時代の美術観賞者の歴史認識や
歴史に対する知識レベルによって、画家がどれだけの力量でその観賞者の知的レベルに応えるかによって自ずと歴史画の水準も決まってくると云うことであると言うことだと思います。

現代の日本人には国史に対する知的水準があまりにも低く、
小堀鞆音が活躍した明治、大正の時代に歴史画家に求められた
奥深い日本の有職故実、歴史認識並びに精神性などを求める観賞者がいないため、
自然と画家にもそれらの力量を問われることも無くなっていることです。

絵画を単に投機目的で売買するような現代日本に於いて、
日本画に精神性や歴史認識を求める観賞者は今、どれほどいるのでしょうか…。

日本の伝統文化を守り伝えると云うことは、単に形式を継承する事ではなく、
形式の中に脈々と受け継がれてきた、日本人の精神性こそ、守り伝えていかねばならない
最も重要なことであると、この度の小堀鞆音没後80年展を通して気付かされた次第です。

お近くの方は、是非、ご覧になることをお勧めいたします。】 ☆★★★・・・・・・・



同行して下さった方の感想です。



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十三夜、秋も本格的に・・・連休の一日、秋の景をお楽しみいただきましょう。




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岡倉天心 先生は【創造、開拓の人】、であり、明治政府の体制が一応定まって、日清戦争勝利という一つの成果が出た後は、それまでの模索と試行からは脱して、基礎の強化、安定という時代に移行してゆくのです。

つまり、細部にこだわらず、壮士風に前進してゆく天心の素晴らしい豪傑ぶりは体制維持派にしてみれば、却って鼻につく邪魔者でしかなく、排斥されてしまう時代の無理からぬ要請でもあったのでありましょう。

美校経費を超過して譴責処分を受けたり、上司、九鬼男爵のご内儀と深い仲になったり、生涯を通して【創造開拓の人】たる岡倉天心 は一筋縄ではどうにもならない、英傑そのものであったのです。



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その晩年、五浦で毎日釣りを楽しんだ天心

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 さて、異様な天候続きの夏も過ぎ、美術の秋。そろそろ再び、このブログも菱田春草生誕100年の本筋に帰らねばなりません。

 100年に一人の英傑、岡倉天心 に見出された大天才菱田春草。

 明治31年日本美術院開院記念展に出品したのが、【武蔵野】

及び、【寒林】、の屏風でした。




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 【寒林】



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 同、部分



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【武蔵野】 屏風



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 同部分

当時再来朝していたフェノロサが、ジャパンデイリーメール誌に発表した【寒林】への評が残されています。



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“仕組みに於いては大差ありといへども吾人に観山氏の画の如く、同様なる感を与ふる者は春草氏の屏風なりとす。是れ、光線を受けたる林中の光景を現したる物にして強き光線のコウカツたる樹木を射る所、古岩の流水を阻む所、凡て是、柔和なる筆致を以って物しぬ。吾人は是を称して相阿弥の近世化せられたる光栄あるものとす。”

日本美術院の開院とほぼ同時期に、春草は初めて一戸を構え、

野上宗直の長女千代と結婚。春草25歳、千代20歳。

神田でのシアワセな新婚生活がここに、始まるのです。




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私の出品作品は・・・・





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  【日昇】

小さい作品ばかりですが、絵画だけでなく、現役美術家勢ぞろいの展覧会です、宜しければ、どうぞ。


ようやく、秋らしい日和が続きます。芸術の秋です。

秋景テーマの作品をご覧戴きましょう。一足先に錦秋をどうぞ。



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10月3日から13日まで、芝の東邦アートでささやかな個展を開催しております。

どうぞご高覧下さい。





何れも、クリックで拡大されます。






 美校騒動により、天心一統は始め私立美術学校の設立を考えたようですが、天心の意見でその計画を変え、明治31年7月1日「日本美術院創設の趣旨」を公表。

 前後して、谷中初音町に研究所建築の工事が始まりました。資金調達は主として天心が当たり、アメリカのビゲローがこれに応じて二万ドルを送ってきたことが計画を著しく進歩させた要因であったようです。

 こうして、10月15日。日本美術院開院式が催される事となりました。



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 朝日新聞紙上大観の語り、続き・・・・・・・

・・・・岡倉橋本両先生には既に自由に囚われざる美術研究、ひいては、普及と民衆化との輝かしい前途の見通しが付いていたらしく、ここに民間美術振興の新運動が画策されるに至った。

 即ち私達退校教員が参加し、本郷の湯島天神鳥居前に巡査合宿所の空き家を見つけて日本美術院の看板を掲げて学校派への一大示威を行うと同時に、日本で始めて組織ある運動的美術展覧会開催への準備を急いだが、先生方を始め私達同人の熱と意気とは、幾多の困苦圧迫を征服して、張り裂けるばかりの勇ましさだった。

 米国のビゲローといふ人が事の由を聴き同情資金一万円を岡倉先生へ寄付して来たのに機を得て、谷中初音町に二棟の研究所を建てた。

 次いで、観山君も学校を退いて加わり、31年秋、折柄官憲万能の中に全然民意に発生誕生した第一回展覧会を華々しく開催するに至った。・・・・・・・(昭和3年9月付け東京朝日新聞より)

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 開院を記念するにふさわしい一大示威となった、日本絵画協会第五回共進会との連合 展は、総出品数800点を越え、大観【屈原】 、春草【武蔵野】 、鞆音【恩賜の御衣】 、河合玉堂【孤鹿】、竹内栖鳳【春雨】 、など後世にものこる傑作が続々出品されました。

 

 殊に大観の【屈原】は、荒涼たる景の中、風に向かう志士、屈原(くつげん) の姿を悲運の淵に立った天心の胸中と重ねて表現したもので、場中第一の威を張り、盛況に華を添える事となったのです。


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 【屈原】 部分

 さらに、仙台、秋田、盛岡、など東北各地を巡回。翌年にかけて地方への進出に力を入れてゆく一方、作家相互の研究会も月例として熱心に行われる様になります。

 尚、機関紙刊行をも企画し、早くもこの年10月20日創刊第一号が発行されるという勢いで、まさに順風漫歩。誠に好調な滑り出しでありました。

 以後、この共進会展覧会は、毎年春秋二回、明治36年まで続けられる事になります。

以下続く


 



 

 非職された天心の後任として女子高等師範学校長、T氏が就任。しかし、多数の教授助教授達は、天心に対する当局の措置を承服せず、天心と行動を共にする意を明らかにして、当局を狼狽させました。


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 昭和3年9月東京朝日新聞掲載の横山大観 氏による、

 【院展の30年の苦難】 を続けましょう。

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・・・・いよいよ罷職の話が出るや、校内は“かなへの湧く”が如き騒ぎに陥ったが、実に電光石火、全教職員40名近くは岡倉校長擁護に立って結束を固めてストライキを断行した。

 陽春新学期を向かえて校門は固く閉ざされたのです。

 するうちに、今の、奈良博物館長久保田 鼎氏を校長代理と言う名義にしてストライキ教員一人ひとりを呼び出して復職勧告が始まった。

 教授中には単に職人上がりの無知識者も居た事とて、勧説がなかなか利いて中には、「こんなストライキに参加するとは国賊にも等しい行為だ」 とまで脅され、ふるえあがって復職に応じた先生方もあったとの事だった。

 結局総結束もいつの間にかほぐれて、やがては我も我もと復帰し、古今未曾有の教員ストライキは三ヶ月ばかりで、すっかり破れて、学校は再び授業を開始した。

 橋本氏と共に頑として復校しなかった連中は寺崎広業、西郷孤月、桜ヶ丘三四郎嘱託の菱田春草の四故人に六角紫水氏と私との少壮六人のみで一様に懲戒免職となってしまった。

 騒動は其れで済んだ。


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以下続く






大観の語る【美校事件】

明治31年の美校事件から、およそ、30年後の昭和3年。

東京朝日新聞に横山大観 氏が語る“院展の30年の苦難”と題する記事が出されました。

この30年前の美校事件について、始めて、大観が公に語ったのです。

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・・・・・、その騒動の内幕を語れば、故岡倉覚三氏は、我が近代美術新興運動の大恩人であるが、当時美術学校校長として、教育方面に思い切った新解釈新方針をとり、後世美術界に一大影響を与えられた当時の新人だった。

 先生の民衆的な立場には皆一様に引き立てられたものだが、中で福地復一と言う、図案科の一教授は、先生の慈愛をはきちがえて溺れた、と言うか、ともかく大変な増長振りを示していました。

 偶々、岡倉先生がシナ旅行中29年度卒業の菱田春草氏の卒制、【寡婦と孤児】の試験成績採点について教頭の故橋本雅邦先生が、主席の成績をつけられたのに対して福地氏は僭越にも「こんなもの絵じゃあない」 とまで罵りつつ橋本先生に食って掛かり傍若無人な振る舞いに出で、さすが温厚な橋本先生もすっかり怒ってしまったことがあった。

 岡倉校長は間もなく支那から帰られたが、既に学校内部では右の福地氏の横暴ぶりをどうしても黙過出来ないこととなって遂に橋本氏に高村光雲、剣持庶務係両氏を加えた三人が福地氏に迫って辞職勧告をするに至った。

 その当時私も下村観山君も共に助教授で、この美校の行動に対して当然のことだと思って見ていました。

 大勢におされては福地氏もやむなく学校を引退したが、福地氏は右三人の行動は岡倉校長の差し金に相違ないと断定し、人一倍愛されて居たので、一層恨めしくなったともいふべき形で、故大村西崖氏とはかって、岡倉先生の私事暴露をやりだした。


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 先生の私生活について非難される、ありとあらゆる材料を指摘しコンニャク版に刷り上げて要路の人や、美術鑑賞家達へ隈なく配布したものだった。

 大村氏と言えば、その以前、松源における教員会合の席上、何かの拍子で、故西郷孤月氏の為に、大皿に盛られた刺身を皿のまんま頭からぶつけられた上、桐の丸火鉢をブッつけられたことがあり、そんなこんなで当時学校を退いていた人でした。

 こうなっては文部当局も黙っている事が出来なくなったらしく、誠に不穏な雲行きをはらんでいたが、果然当局から岡倉先生罷免のさたが立てられるに至ったところが、先生への思慕は、全校の一致した心でした




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以下続く


 明治31年、東京美術学校長、岡倉天心 を巡って、ただならぬ人事の葛藤が生じます。 

 後に有名になる、いわゆる【美校騒動】であります。

 騒動の発端は、図案化の一教授、福地復一が、反天心派の教師と計って起こしたと言われています。

 福地は天心の推挙で、美校教授に挙げられましたが、後に言動が公明 でないことなどから天心に疎んぜられ、その地位さえ危うくなりかけたので、それを含んだ福地は、偶々臨時博覧会副総裁の任を解かれ、さらに帝国博物館総長の地位も危ういと噂されて動揺していた九鬼隆一男爵 に取り入って天心排斥運動を起こし、遂に天心をして博物館理事、及び、美術部長辞任に追い込んだのでした。

 実は、 九鬼男爵の方も、文部省の主導権を争い、かの福沢諭吉との確執を抱えていたのです。

 これまでにも、部下である岡倉天心 の放埓な言動には困っていたのは事実でした。かてて加えて、奥様と天心との不倫騒ぎまで、加わって、苦りきっていたと思われます。

 福地らは、ここに乗じて、天心の地位をも覗っていたのです。


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九鬼男爵の夫人初子と天心は恋愛関係に・・・・。

この一連の事件?は、当時の読売新聞で、“美術界波爛の真相”、として報道され、かなりセンセーショナルな物議をかもし出したのでした。

さらに、悪意に満ちた怪文書が各方面に配られ、天心の私行を虚実拡大して暴露し、天心を“精神遺伝病を持った”、“非常なる残忍の性”、であり“その品行片時も教育者たる地位に就くべからざる”もの。と断じてありました。

遂に、文部省当局も天心排斥に傾き、結局美術学校校長非職を

命ぜられる事になったのです。

この秋、再興96回展を迎える院展は、明治31年の創立。

このときから数えれば、既に110年を超えようとしています。

 創立当時の歴史を振り返ると、文化と言うものが結構危うい成り立ちで生まれるものである事が良く分かります。

 と言うのも、院展は偶然の産物ともいえるからで、時代を繁栄した一つの現れに違いはありませんが、予期せぬ勢い?が主なるその源。ナント創立者岡倉天心 の下野というアクシデントが、創立の発端なのです。

 創立第一回展覧会で一番の話題をさらった作品が、横山大観 の【屈原】(くつげん)



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  部分 (・・・・こわっ!)

 荒涼たる景の中、風に立ち向かう志士“屈原”の姿を悲運の淵に立った岡倉天心 の胸中に重ねて表現した作品と言われています。鬼気迫る、大迫力。何者かを感じずにはおきません。

岡倉天心 が悲運の淵に立たざるをえなかった、【美校騒動】、とか、【東京美術学校事件】と呼ばれる、文化面の歴史的事件は、当時のジャーナリズムを大いに席権したのです。

 当時の記録が物語っているのは、スキャンダラス なゴシップ記事の氾濫。

 あらゆる新聞社のネタであり、かっこうの餌食であり、話題騒然としたのでしょう。まだ元気で活躍していた正岡子規 までが、感想と言うか、評論を書き残しています。

 以前にも少し語りましたが、明治二十年代は、明治新政府として、国家が一つの大きな稔りを得ていった時代。大きな節目であったわけで、創造的な人材が時代の寵児となった。

 が、次第に、安定期に入ると今度は、事務派と言うか、体制維持に向いた人材が台頭してくる。

と言うわけで、岡倉天心 の様な、開拓的創造者、は、邪魔になるんでしょうか? 勿論個人的な利害も加わって、もう、ぐじゃぐじゃ。

 スキャンダルにまみれた天心は、遂に、あらゆる公職から追放されるのです。飛ぶ鳥を落とす勢いで、明治近代文化を一人で背負った様な立場から、あれよあれよと言う間に、転がり落ちてしまいました。