説明を終えると、いよいよ創作が始まります。とにかく役者はそろって、舞台に上がらせたものの、演出がまだこれから。と言うわけです。
主役のサシハが、水に映っている虚像なので、ちょっと物足りない、存在感の薄い主役ですから、よほど熟達した名脇役を揃えて、大胆かつ周到な演出をしなければなりません。
主役の引き立て方を間違えるとツマラン舞台になってしまう。良く考えて、ギリギリの表現方法を持ってこないと観客を呼ぶところまでは行きにくい。そこで、ともかく、脇役全員に舞台の裾へ、引っ込んでもらう事に。
思い切って、画面を洗いました。
固有色を徹底的に彫り塗りするも、、とにかく暑い。クーラーとビールがお友達。根気の要る我慢仕事は、この季節はたいへんです。それでも何とか格好がついてきたところ。
物の説明は、正確であればあるほど現実に近づくので、夢、、幻想感、は、消えてしまうのです。なんか知らんが、不思議な感じがする、、、それも決して嫌な感じではなく、むしろ引きずり込まれる魅力がある。
絵の魅力は、言葉では表現しきれないものでなければなりませんが、説明的な絵は、うるさく言葉を尽くしてあれこれ、言い訳している状態とでも言いましょうか、とにかく、全然面白くはありません。
ところが、絵の欠くべからざる要素として、客観性ということがある。つまり、何を描いたのかがわかる必要が、あります。
そのために幻想感を出そうと予定している場合であっても、とにかく最低の説明はしないと、話にならない。そこで、、延々と根気の必要な作業が、大切になってくるわけです。どんな大天才でもこの段階をぬかして、絵を描く事は出来ないのではないでしょうか?
思いも依らないようなハイレベルの抽象化、が出来る様になるまでは、根気戦術でいくしかないのでしょう。
抽象を始めから狙うと、純化、単純化、ではなく、簡単化になり易い。抽象しなければ、くだらない説明になってしまい、夢は産まれないのだけれど、抽象を目的にしてしまうとそれは、へ理屈になって、これまた、全然面白くない。
抽象を目的にすると、丸と三角とに集約されてしまって、個性がなくなってしまうんです。
ま、しかし、ホントは、マル一つ描けば万人が感嘆する!
これが出来れば根気仕事などはいりませんが、、、、。
物の説明は、正確であればあるほど現実に近づくので、夢、、幻想感、は、消えてしまうのです。なんか知らんが、不思議な感じがする、、、それも決して嫌な感じではなく、むしろ引きずり込まれる魅力がある。
絵の魅力は、言葉では表現しきれないものでなければなりませんが、説明的な絵は、うるさく言葉を尽くしてあれこれ、言い訳している状態とでも言いましょうか、とにかく、全然面白くはありません。
ところが、絵の欠くべからざる要素として、客観性ということがある。つまり、何を描いたのかがわかる必要が、あります。
そのために幻想感を出そうと予定している場合であっても、とにかく最低の説明はしないと、話にならない。そこで、、延々と根気の必要な作業が、大切になってくるわけです。どんな大天才でもこの段階をぬかして、絵を描く事は出来ないのではないでしょうか?
思いも依らないようなハイレベルの抽象化、が出来る様になるまでは、根気戦術でいくしかないのでしょう。
抽象を始めから狙うと、純化、単純化、ではなく、簡単化になり易い。抽象しなければ、くだらない説明になってしまい、夢は産まれないのだけれど、抽象を目的にしてしまうとそれは、へ理屈になって、これまた、全然面白くない。
抽象を目的にすると、丸と三角とに集約されてしまって、個性がなくなってしまうんです。
ま、しかし、ホントは、マル一つ描けば万人が感嘆する!
これが出来れば根気仕事などはいりませんが、、、、。
倭姫命が、御杖代として、御鏡を鎮め参らすために、各地を訪ね歩かれ、ついに伊勢の地にたどり着かれたのが、およそ2000年前。
第65回春の院展 倭姫命
伊勢神宮の南、車で30分ぐらいのところに伊雑宮(いぞうぐう)があり、御田植え神事は、神苑のすぐ前。整備された神様専用の田んぼで行われます。勿論こちらも神宮の一部、倭姫様がお気に召して暫くおられた地。
有名な伊勢神宮式年遷宮の制度が決められたのは古く持統天皇の御世。41代の天皇です。倭姫様は第11代垂仁天皇の内親王。30代、大雑把に考えても千年ぐらいはタイムラグがありそう。
つまり、御田植え神事は、少なくとも2000年の歴史がある。と言えましょう。
胡粉、朱、金泥、墨、固有色を丹念に塗っています。



























