絵師 高橋天山ブログ -21ページ目

絵師 高橋天山ブログ

日本画家が語る日本文化の素晴らしさ
菱田春草を語る

結局、カメラジジイにやられっぱなしで、スケッチもそこそこに、自らもカメラおじさんと成り果てて、情報収集すること4時間、


早乙女の初々しさ、男性のおおきさ強さ、実像と水に映る虚像、泥田の美しい褐色、

そして、一番の主役は、神様。サシハと呼ばれる、太い竹ざおに取り付けたノボリ。


太一と書かれたそれは、深い青空に映え、おおらかな感じがとても良い。そして、目にもまぶしい程の、早苗の緑。


面白さが盛りだくさんでちょっとまとめにくいが、、、3種類の考え方で、7,8枚の小下絵を作って試行錯誤、色と形とを組み合わせ調和を図ってみました。泥田と藁傘を、金で表現すれば、、、何とか、、というのがこれ。





院展同人 高橋天山ブログ

 伊勢神宮内宮から車で小一時間、南に位置する伊雑宮(いぞうぐう)は、倭姫様が始めて伊勢の地に御杖代として心から安住の地と感じたところ。だそうです。御鏡が鎮まられる地を捜しあぐねての旅であったそうですから、ホントに良いところだったのでしょう。


 今では、リゾート地となり、パルケエスパーニャ、が近くに出来、滅多に雪もない温暖の地です。
  
 のんびりしていてトテモいいとこ。魚も上手い。

 

天照大神から、私だと思ってとのお言葉と共に渡された、御鏡は、そもそもスメラミコトとともに在る様にと言い渡されていました。

 

歴代の天皇様の皇居に必ず御鏡の安置場所があって、スメラミコトと同床共殿。が、原則。


ところが10代垂仁天皇時代、今で言えばクーデターのような、政変が起こり、御鏡の安全上、他へ御移しもうしあげなければならなくなった。そこで、内親王倭姫様に託して、御移し候補地を捜していただいていたのです。元伊勢という地名が天橋立に今もありますが、ここも、その候補地の一つでした。

 

永い遍歴の末、今の神宮の地をさだめて、御静まり頂いたのが現在の伊勢神宮。神話は現代に繋がっているんですねー。

 この間の春の院展に描いたのはこのお方。巡回展は、こんどは広島です!


 伊勢えびとアワビがすきだったのでしょうね。“姫、伊勢大好き!!!”というわけで、初代の伊勢の斎宮になりました。文書に残されている記録では100歳をはるかに越えるご年齢までおげんきだったとか、かのヤマトタケルノミコトのおば様にあたられます。架空の人じゃないんですよ、ヤマトタケルも。

 

だから、伊勢の地で先ず気にいった伊雑の宮には一番古い祭りや伝承があるんです。

 

今回の取材、お田植え祭りもこの一つ。

 

早乙女とふんどしすがたの男達。素敵な祭りでした。地元のかたがたは、毎年この日を大切に楽しみにされている様子でした。子供達も学校が休みになるようでした。のどかな、そして晴れ晴れとする祭事でした。

 

院展の制作に追われ、こもりっ放しでビールとクーラーがお友達の日々。アツカッター。

ともかく完成し昨日搬入しました。今回は伊勢神宮で昔から続いてきたお田植え神事がテーマ。来年は抜穂祭をテーマにして、今回の作品と対にしようかなと考えています。


今年と来年、いつもの会場である東京都美術館が改装のため使用できず、代わりに三越本店での院展となります。従ってサイズに制限があって、同人も100号まで。


95回展になる再興院展ですが、審査員の出品作に寸法制限があるのは初めてではないかと思います。面白い事になりそう。制約を嫌う芸術家集団ですから、サイズの縛りは最も嫌な足かせ。その中で縦横無尽に実力を発揮できるかどうか?とくとご覧下さい。


再興第95回院展   会場 東京 日本橋三越本店 本館・新館7階ギャラリー

             期日 9月8日(水)より9月20日(月・祝)まで(休館日なし)


制作過程を報告して行きます。




円山応挙~画家の語る画家達~


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 丹波国穴太村(あのおむらー京都府亀岡)の農家の次男として
江戸時代中期に生まれています。
穴太衆と呼ぶのは、古代から繋がって来た石工の技術集団で、
近江の比叡山山麓にも穴太の里があり、
今でも、坂本の町には彼らの作った石垣が残っているのですが、
応挙を知る上でこの事は、覚えておいて良いのかも知れません。
生い立ちなど良く分かっていないようですが、志をたて、京都にでて、
狩野探幽の流れを汲む石田幽汀と言う絵師に学んでいます。
この絵師は、宮中の御用絵師であり、それなりの地位もあったようですが、
近代日本画に多大な影響を与えた程の大名人の才が、
この師で満たされていたとは、到底考えられません。

 当時流行り始めた、覗きからくりの絵付けをしていたらしく、
旧来の画技を磨きながらも、新しいものにかなり敏感な青春を送ったことでしょう。
とにかくこの方を名人と言わずいったい誰を名人と呼ぶのか?
と言いたいくらいの大名人で行くとして可ならざる無き作風は、
全くお手本と言っても良い。洗練の極み。
雅、侘び、寂び、日本文化の要素すべてを揃えた上にナオ華麗!
怖いものなしの実力です。

 探幽の描きぶりを参考にしたことは良く知られていますが、
全く独自の写生観、は驚くべきものがある。
現代の京都を中心とする関西系の日本画家には、
いまだに応挙の影響が色濃く残っていると言えます。
進取の気概に溢れている事や、真っ向勝負の写実を作画の基本にすえる所など、
この200年、京都画壇は、ある意味において変わらない。
さらに京都文化は北前船によって特に日本海側に伝わり、
秋田佐竹藩には小田野尚武と言う応挙の写実を体現しようとした画家も現れ、
秋田蘭画につながっている。ケレン見のない、
正統派写生の創始者の面目躍如たるものがあります。

 現在のように高性能の映像機器を当たり前のように誰でも持っている時代に
この名人がいたらどうなるでしょうか?
彼の時代は墨、紙、筆、たったこれだけで、
花も山も動物も、海も木も人も、皆あらゆる物象を捉え、
目を見張る写生表現で、すべての人を魅了していたのです。
コンパクトカメラひとつあったわけではありません。
見たことのない虎さえ、その皮だけで想像して、
かの金比羅山のフスマに描いてしまったのです。
矢立(やたて)といって、鉛筆一本あるわけではない時代の便利な携帯用筆記具。
和紙を閉じた写生帳。肌身離さず懐にいれて、目に触れたもの、興味を持ったもの、
次々に描き残していったことでしょう。
まるで江戸時代の歩くハイビジョンカメラのごとく。

 さらに、センスの良さ、洗練と言う言葉はこの人のためにある。
国宝雪松図、金泥の空間を鮮やかな刷毛ぼかしで描きいれ、
濃墨だけで描いた大小三本の松を左右の六曲屏風に収め、
雪の白は、紙の地色。大雪をかぶった見事な松の厳かにも凛とした空気感を、
墨と金泥だけで表現し尽くしています。この作風は応挙独特のもの。
彼の最高傑作である金比羅山表書院の障壁画にも同じ表現が施されていて、
やはり紙の白が、大変重要な役割を果たしています。
あまり知られていないこの金毘羅宮の書院は、若冲も担当していますが、
応挙は4室を担当し、鶴の間、虎の間、2間を一気に書き上げた所で、
京都のアトリエが全焼するという災難に。
下図から何から皆燃えてしまったのだそうです。
体調不良も重なってか、5年後ようやく、残りを。
そして最後に描きあげたのが、畢生の名作、山水の間でした。

 書院は林泉に面していて、実際に池があり、小川が流れています。
そのことを計算にいれ、窓外からの水音の源を滝として描きあらわし、
次いで流れ出る本流を深山幽谷の景に溶け込ませ、やがて地を潤し、
七賢の間、虎の間、鶴の間の水へと行く手が次々とつながって、
一部屋一部屋が独自性を保ちながらも、一つの連続性を持ち、
そこにたたずむ人をして陶酔境に導くと言う離れ業を見事にやってのけています。

  写生と言う確固たる基礎に立った上で洗練を極める。
まるで、大昔から日本中の石垣を築き続け暮らしそのものを支えてきた
穴太衆の巧みの伝統が時空を超え子孫である天才応挙に集約されたかのようです。
この半年後彼はもうこの世の人ではありませんでした。

 例えば、稲作が、日本の骨格と考えると、寒冷地も含まれる日本の風土の中での稲作は、非常に難しく、神経質なくらい労を惜しまない事が必須であり自然に対する嫌もオウもない順応、忍耐、の連続であり、1年にたった1度の収穫のために、知恵を絞り、汗を流し、全力を尽くして、せざるを得なかったであろう事は、想像に硬くはありません。

 何百年、何千、何万年、営々とその労苦を続けてきたことが、日本文化を生んだ原動力と言えるでしょう。

 何しろ、百年生きれば長寿。幾らがんばっても80数回しか、実りの体験を味わうことが出来ないのですから、個人としての体験だけでは、稲作の真髄が、分からない。簡単に言えば一代だけでは足りないのです。次の代、又次の代、営々、努力また、努力、。

 仮に、一部の人に言われているように、稲作の発祥は、支那南部であり、日本に伝わったのは、遅く、それまでは、野蛮な、穴居生活だったとすると、このように繊細で、独創力に富み、持続力と耐久力と、明快な判断力とを兼ね備えていなければ生まれる筈もない日本の文化は、すべて外国からの移入によるおかげ、と言うことになるでしょう。

 しかし、そんな事で、、世界に先駆けて、源氏物語がうまれるでしょうか?700年も民衆を楽しませ続けているお能が、生まれるでしょうか?光悦の生み出した侘びサビは、日本人だけがわかるのです。
 
 明らかに歴史として教えられてきたモノは、間違っています。

 ほんの少しでも、日本文化の実像を見聞きし、感じたことのある人なら、ちょっと考えればすぐ分かることです。

 こんなに奥の深いものなのか、と感じ入り、さらに心ある人ならその深さのよってくる所以に、思いを馳せる事でしょう。そして、それが、稲作によって来るもの、との、認識に繋がって行くはずです。

 さらに、想像以上の年月を想定せざるを得ないことも、だんだんに、分かってきます。ちょっと考えれば、千年や、2千年で、はなさそうです。少なくとも万という単位をかけずにこのような洗練が、生まれる筈はありません。

 源氏物語だって、もう千年経つんですから。

想像力が、少し足りない為に、我々は、損をすることがとても多いのです。
良く考えざるを得なかったり、時期を得た指針をもらえたりすると、なるほどと思えるのですが、うっかりすると、嘘や、悪意に満ちた情報であっても鵜呑みにしてしまい、深く思い至ることがないのは、改めて言うほどもなく常に経験することです。

 お箸を駆使するに、何の逡巡もない。そのことが日本人の高い文化性を、端的にあらわしています。先の尖った箸。貴方もご飯粒を、箸先で軽々とつまんでいるでしょう?中国人には、そう簡単にできないことなのです。

 さて、少々回りくどい話になりましたが、大東亜戦争、(欧米から言うところの太平洋戦争)、この敗戦によってあらゆることがめちゃくちゃにされました。究極の殺人兵器を使われた方が間違っている。無差別爆撃した方が正義と、我々は学ばされたのです。平和を乱したけしからん国、日本。と言う烙印を押されて、すべての価値観をそこへ持っていく教育を無防備に受けさせられ続けたのです。勝者によって、敗者を裁く事さへ公然と行われました。

 元をただせば、ニコライⅡ世が、マカーキー(黄色い猿)と、日本人を蔑視したのも、ペリーが浦賀に来て、大砲による恫喝を平然としたのも、信長公に取り入って、日本を植民地化しようとしたバテレンたちも、みんな、悉く、日本への侵略者であったのですが、邪悪なその意図が今尚、脈々と、生き生きと、堂々と、隠された公然として、まかり通っているのに、殆どの人が、その一番大切な事に、気づかない。大海原があって、身につまされた侵略の経験がないので、侵略されていること自体に、にぶい日本人には、わかりずらいのかもしれません。アジアの各国は、いやがうえにも、肌でそのことを知らされているのに。さらに、情報操作による事も、すこぶる多い。それこそ、友愛なんていってる場合じゃありません。

 確かに、つい60数年前から与えられた、価値観の方が間違っている。
 そして、アメリカの支配から中国の支配へと、変わりつつあるのが、今。

 その事の認識が足りない人ほど、グローバリゼイションに、魅惑されてしまっています。

 勿論、日本画も洋画も区別はない、と言う価値観も簡単に、受け入れてしまいました。そして、日本画らしい日本画がなくなっていく。日本文化もなくなる、、、。日本も、、、、。


 遠い遠い昔より、夏暑く、冬寒く、穏やかな日和は続かず、いつも注意深く天気と相談しながら、自然のサイクルから恵みを頂かなければとても暮らして行けない、と言う難しさを、いやおうなく学ばせられる一方、四季の変化による風物の変転回帰による、自然美の深さ、豊かさ、幅広さ、を日常に享受し続けて来たこと。この両者の拮抗が、日本人を育み、日本の文化を産み出したのです。

 音楽にしても、その人の歌いやすい音域で歌う。その曲の曲趣によって、あるいは歌う季節によって音域をかえる。西洋音楽の様な絶対音階はなく、その人、その場、によって、快適に歌い楽しむ事を主眼とする。
 人間を豊かにする為にこそ音楽はあるのであって、五線譜上に規定された仕掛け?とは雲泥の差、邦楽の真髄は、すばらしい。音楽と言わず、音曲というのに、芯から音を楽しませてくれる。

 決して優しいとは言えない風土の下、気の遠くなるような歳月を重ねた稲作による文化。世界中どこを探しても、ありえない日本文化。その一翼を担っているのが、日本画であります。

 人を規定しない、強いると言うことがない、寿福増長の根源としか働かない文化は、日本にだけ、存在しているのです。