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絵師 高橋天山ブログ

日本画家が語る日本文化の素晴らしさ
菱田春草を語る

 月下白鷺



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 同部分


 雲から覗く月を、真っ黒で表現しています。光を感じて、少なくとも白く描くべきところなのですが、春草は、この半月を黒で描いた。

 このことで、白鷺の白さが際立つと共に、通俗的表現から何段階も上のさりげない非凡さを垣間見せたのでした。

 水辺にたむろする白鷺の小群が、月夜の夜遊を楽しんでるという設定には、ほの白く輝いているお月様をもってきてはいけないのです、ね。

 野暮な人は、“何で月が黒いんじゃ?”と言ったかもしれませんが、鷺だって夜遊びくらいしたいんで、夜遊びと言うからには、煌々と照りつける光はいらない、むしろ、薄暗がりの中、夜陰に紛れながら、【飲み会】あるいは、【合コン】で遊ぶ。

 夜通し楽しみたいのであります。

それには、真っ暗闇でもおかしいし、満月でも駄目。 黒い半月・・・・・とは、実に人情の機微を捉えているではありませんか。

 鷺に【人情】と言うのはおかしいかもしれませんが、鑑賞者に対して鷺を擬人化させて、人情の機微を感じる余裕を持たせているともいえるわけです。ナントも粋な計らいではありませんか。

 白鷺から抱く清楚なイメージ、純白の気品、誰しも嫌いではアリマセンね。大天才菱田春草描くところの白鷺の連作をご紹介してゆきましょう。



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明治26年6月、春草 専修科3年が終わる頃。
 兄為吉への手紙より、

★  ★  ★  ★  ★

 

今般学校にて、学校の生徒の画の風、大概一定して変化と云ふものなき故、少々次学年より改正して、最も今頃は何年何年として一組づつ教員が受持て居りしが、今年より、二年より皆一所にして三つの教室に別ち、其の第一を巨勢小石、副として下村晴三郎受持ち、第二教室を橋本先生と副下村、第三教室を川端玉章と岡本勝元と受持つように相成り、第一は多く鎌倉時代より、其の後に行はれたる美術にして、当時に相応せる絵画を教授す。又第二教室は東山より徳川の始めに行はれたる絵画にして、現今に相応セル,画を教授す。又次は、徳川の後期に行はれたる絵画にして、現今に相応セル絵画を教授するものなり。
 
 ひと口に申せば、一は古土佐を学びて明治に結びつけ、又二は、雪舟等の如き狩野の如き画を学び合わせて明治に結びつけるなり。又、三は円山応挙の風の画を学びて明治に結びつけると云ふ目的に候。
 
 それ故、十二日までに届けを出す筈に御座候。小生は第二にする積もりにて、天草も二をする積もりとの事にて居りしところ、今日学校にて校長室へ呼ばれ(天草と小生)学校何をする様聞かれし故、第二をすると答へしに、学長の云ふは、第三を学ぶもの少なく、又大いにやろうと云ふもの少なき故意を曲げてはいかんか、小生になる様云ひし故、又小生も元より宜しき事にて前より重い居り、それに小生も思ひ、又校長も意を含んで云ふには、東山は高くしてやりにくく、つまり損と云ふ。
 
 又小生に云ふ、目的は写生をやりて西洋に太刀打ちして劣らぬと云ふ処は元より、日本と云ふ処は、どこまでも固く守り、品格の高きものにて写生を元とす。応挙位ではつまらんけれども杯と云ふ。
 又、応挙は花鳥と山水上手にて人物はそれ程に非ず、小生は人物をやりて非常にせよとの事にて、然し君等は、何れの道よりするとも、過つ様な事はなし、やって見ては如何と云はれし故、小生も元より心をる故、夫れをやらんと覚悟して、どこまでも深く学ぶ積もりなり、先ず考へると云ふて帰れり。


 夫故直ぐ三になる様届けを出す積もりに候。天草君は、第二にして、今の処にては一寸やる積もりなれども、つまりは各別にて今の様の目的となり、小生は一年間故どふでもよい様なものの、一寸一きまりがつくなり。
 

又、先を考へても、責任は重けれども、一割は利もあり。何しろ上手の人三四人、後になりて出来る故、其中にて皆同じものにて競争するより、皆異なる長所をして、一方の覇となる方がよく、小生も其の方心に逢う故、是に決定致し候。・・・・・・・云々。


★  ★  ★  ★  ★


 この分期教授制は、岡倉校長の立案であり、この改正の際に特に、春草を呼んで、懇切な注意を与え、第二教室志望だったのを第三教室に変更させたのでした。

 

天心は、将来第一と第二は下村観山に任せ、第三は春草に任せるとの展望を持っており、この頃すでに春草の天才にかけていたと言えるでしょう。

 

春草は天心の期待を喜んで受け止め、精進を誓うのでした。とにかく、校長からじきじきに、言われたのですから。大変な事です。

 

《応挙位ではつまらんけれども》・・・・・・・!!?? 

  

 応挙とは、かの円山応挙であって、ひと時代前の大天才。その大天才、応挙が足りないところを俺様がちょっと補ってやろうと思います。

 とお兄さんに豪語しているのであります。


 このくらいの気概は我々にも、必要ですね。



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 明治27年 一月、春草は、校友会大会出品作で賞牌を得ます。
“六波羅合戦院の御所焼討の図” という画題の歴史画でした。同期生天草神来も、一等褒状を得て、ライバル同士、お互いに元気。四月、今度は、“鎌倉時代闘牛図”により、賞牌二席を獲得。



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此の時、下村観山(当時はまだ晴三郎)の描いた“日蓮上人化導ノ図”と、天草神来も受賞。校内では、なかなか熾烈な競争が繰り広げられていたのでした。不思議にも? 大観も確かに居たのですが、どうも、はかばかしい成績ではなかったようです。

実は、学生時代、常に花形であったのは、春草と観山。そこに春草の親友、天草神来が、食い込んで来るといった按配で、年長の大観の出る幕はあまりなく、学生同士の評価も当然、大観には誰もあまり注目しては居ないのです。 

後に、神来は、それほどには注目されないままで、観山は、天心の取立てによって第一人者として自他共に認める存在となり、巨匠と言われた時代もありましたが、現在は知る人も少ないありさま。

春草だけは、常に周囲が認める、プロ中のプロであり続けたまま、早世してしまい、伝説のように語り継がれながら、いよいよ巨匠として、日本を代表する真の日本画家と、されてゆくのです。

その真価を真剣に追い求めたのは、大観その人。大観こそ、春草の真価を一番良く理解し、尊敬し、指標として見習う正直さをもっていたのです。年下の人を尊敬するのが難しい《若さ》をも遥かに超えてしまう素晴らしさを春草が持っていたからでした。

このことは、非常に示唆に富んでいます。普通、男社会のヒガミは、なかなかに強烈で、その為に道理が引っ込む事もあるくらい。皆さんも思い当たる事があろうかと思いますが、才能の世界では、自分を遥かに超えた才能をなかなか認めたくないもの。

はたから見て明らかに上回っていても、その本人はおいそれと自分が劣っている事を認めることが出来ないものであり、これができるのは、私心が無い場合だけです。

つまり、大観先生は、確かに才能では春草にはかなわないが、日本文化の為に、自己の至らざるところを春草を指針とすることで補おうとする《大きさ》があったと言えましょう。

日本国の為に、ワタクシを去ることが出来た。というわけです。さすが、大観先生!!!


 明治27年五月には、分期教授制度が始まる事に決まります。
これは、岡倉校長の発案で、九月の新学期から、絵画科と彫刻科の教授法を改正するものでした。
絵画科を分けて、教室別とし、
 第一教室  鎌倉時代      巨勢小石  下村晴三郎
 第二教室  足利及び江戸前期  橋本雅邦  下村晴三郎
 第三教室  徳川後期      川端玉章  岡本勝元
の三教室とする。 

 此の時岡倉校長は、春草をわざわざ校長室に呼び、春草が、第二教室を希望していたのを、第三教室に変更するよう指示。既に、春草の天才に掛けていた天心は、近い将来、第一第二教室は、下村観山に任せ、第三教室は春草に任せると言う将来展望を持っていたからでした。


六月に春草が兄為吉に送った手紙に詳しく書かれています。

次回に、ご紹介しましょう。




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明治24年、春草は東京美術学校普通科2年に進級します。18歳。マジで美しい好青年だったようです。そもそも、大観先生も、若かりし頃は、超イケメン。春草も極、極、ハンサムですから、後にアメリカや、ヨーロッパに外遊した時に女性に間違われるくらい美しい色白の好青年だったと思われます。
 

 この年、有名な天心の【日本美術史】が、開講されるのです。天心の八面六臂の大活躍が始まろうとしていました。

 この講義をご存知ですか?日本画を志すものは必見。是非ご一読下さい。
大観も春草もこの講義を熱心に聴講したことでしょう。


 この講義は、当時、世界から見た日本の美術の歴史という観点がまだ無い時代に、それはそれは革新的な視点に立っての、日本美術の概括を網羅的、総括的に高所大所から述べたものであり、日本美術の真価を見事に謳いあげたものであって、現在でも美術界では語り草となっている名講義であります。 

 時に、岡倉校長30歳。


 皆さんは30歳の時何をしましたか? まだ30歳にならないあなたは、これから何をしますか?

 明治時代は、明治天皇による天皇親政によって、日本人がその日本人らしさを最大限に表現できた時代。当然、はっきりした日本人としての自覚の下に、自分と言う個が、公に対して何が出来るか!を、研ぎ澄ませるのが青春そのもの。  ・・・・と言うわけで、どんな人も、明らかに現代人より目覚めた日本人でした。

 勿論不世出の大天才、岡倉天心先生は、その精鋭中の精鋭。


日本美術史の冒頭を少しご紹介しましょう。


★   ★   ★   ★   ★


  日本美術史    
                   岡倉天心    明治24年

  
  序論


世人は歴史を目して過去の事跡を編集したる記録、即ち死物となす。
是れ大なる誤謬なり。歴史なるものは、吾人の体中に存し、活動しつつあるものなり。畢竟(ひっきょう)古人の泣きたるところ、古人の笑いたるところは、即ち今人の泣き或いは笑うの源をなす。


往昔吾人の先祖は、三韓を征服し蒙古の大軍を撃破せり。

吾人は当時に生存せざりしと雖も、三韓征伐・蒙古襲来の事蹟は歴然として吾人思想の一部をなし、吉備公及び弘法大師が唐に入りて斎し来たりたる文学、技芸、家康、綱吉が奨励せし近世の文学も亦吾人知識の一部となし、金岡、雪舟の画は吾人が画を作る原素となり、薬師寺の薬師、法隆寺の壁画等に至りては、如何にして之を作りしや、其の方法すらも知る能はざるも、所謂天平式なるものは吾人の脳裡に存在す。


藤原氏盛時の美術は吾人又之を知らず。然れども尚藤原式として吾人を益するあり。若し雪舟、相阿彌(そうあみ) なかりせば、我が邦今日の美術は決して現在の如き有様ならざるべし。推古、天平、藤原、東山、皆吾人思想の一部をなし、始めて吾人あるなり、小学校生徒をして、紋様を描き、唐草を作らしむるも、おのずから外邦に超絶するの趣を有す。是れ即ち古来幾多の変遷を経たる日本美術なる思想は、我が大和民族の頭脳中に存在して然らしむるにあらずや。


美術史を研究するの要、豊富に過去を記するに止まらんや。又、須く未来の美術を作るの素地をなさざるべからず。吾人は即ち未来の美術を作りつつあるなり。顧みれば、迷濛として半ば其の形状を没するの過去あり、前にはショウボウとして際涯を知らざる将来あり。此の両者の間に処して其の任を全うせんとする、亦難き哉。殊に、明治の今日に於ける吾人の責任重且つ大なるや言を俟たず。


諸氏知らずや、学芸、技術、宗教、風俗等、皆其の標準において大変動を生ぜるを。此の時に方りて、美術独り超然として影響を蒙らざるの理あらんや。


現在美術の、過去将来の中間となりて、之を結合するの任重きこと、わが邦のみ独り然るにあらず。

十九世紀は、是れ世界大変動の時期にして、其の原因をなすところのものものす種種なるべきも、主なるものは、唯物論の勢力を得たること是なり。彼の高遠無辺なる空想をもって主とせる宗教にして、尚且つ将に実物的たらんとす。


美術の如きに至りても。亦実物的ならざれば世に容れられず。一に実物に接近して霊妙に遠ざかれる伊太利亜文学の再興以来、此の方向を取りて滔滔として底止する処を知らず、器械的学術の進歩は器械的の思想を進め、その思想は宗教、道徳、にすらも影響して、之が標準をして機械的たらしめ、人の罪を犯すものを罰するに方りても、恰も権衡を以って之を量るがごとく、何々の罪を犯せるが故に罰幾何云々とす。


亦精密なりといふべし。............




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天心先生像


★   ★   ★   ★   ★


 明治25年、11月には、美校規則が改正され、普通科を予備課程と改称して年限を1年とし、専修科を廃して絵画、彫刻、美術工芸、の本科を置き、年限を4年としたので、春草は絵画科の本科2年に編入されました。

 次いで、明治26年春草は、絵画科本科3年に進級。秋江(しゅうこう)と言う雅号を用いています。此の頃が、狩野派の末裔、橋本雅邦の影響が最も強く出ている頃。直接の担任の先生ですから当然で、年齢も離れていて、春草にとって安心して学べる師匠であったのだろうと思われます。

とにかく筆技を学ぶ日々でありました。




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東京美術学校は、明治天皇による親政の余慶により、明治22年設立されました。

 

 長野県飯田に生まれ、上京して日本画を本格的に学ぶ身となった春草は、兄為吉の援助で、まず結城正明の門下生となり、次いで、明治23年9月、17歳で、美校に入学します。



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入学当時の春草

 
 41名の同窓生と共に、大観の一級下。10月に岡倉天心 が校長に就任。 このとき天心は29歳でした。教授陣は橋本雅邦、結城正明、狩野友信、川端玉章、川崎千虎、巨勢小石、等が、絵画を担当しました。

 開校当時の美術学校は、絵画、彫刻、美術工芸、がありまず、普通科で2年、臨画、写生、造形、用器画法、などの基礎の後、3科に分かれ、それぞれ専修科で、3年の学習規定がありました。

 

 大観の手記による当時の授業内容は、懸腕直筆(けんわんちょくひつ)なる、筆による線描きの修練が、延々と続き、退屈の極みと感じられるころに、粉本の写しに移行し、少しは興味が湧いてくると言ったものだったそうです。天心とフェノロサとで考え出された新しい教育法であったのでしょう。 春草も似たような授業ではなかったかと思われます。



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 在学中の作品 “牧牛”  サイン はまだ、【秋江】



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フェノロサは、明治23年7月に帰国してしまったので、春草は直接学ぶ事はありませんでした。
また。兄為吉も熊本に赴任して行った為に、兄と暮らした住居も移転。同級生天草友雄と親交を深め、一緒に同居したりしていたそうです。

 この親友、天草友雄は、後に春草の卒業制作の大きなモチベーションを提供した人で、好敵手でありました。神来(しんらい)と号し、熊本の出身で、卒業後は、美校助教授ともなり、韓国 へ渡って、李王家の為に壁画を描いたりして活躍しています。

 
 
 懸腕直筆(けんわんちょくひつ)というのは、まず、大きな紙に縦に筆で直線を引く。例えば5ミリくらいの幅の線ならば、その幅を違えずに、一メートルくらいの長さの縦の直線を描く。次いで、その隣にもうう一本同じ幅の直線をまた、一メートル縦に描く・・・・。ずーと、大きな紙が、真っ黒になる位直線を引き続ける。同じ幅、同じ長さ同じ間隔で・・・。

 

 それが上手くなったら、今度は横線。それが上手くなったら、もっと細い直線を縦、横に・・。

 それが出来るようになったら、今度は小曲線を、それが出来たら大きな円をおなじ太さの線で一気にフリー ハンドで引く・・・・・・。

 

 つまり、線をどれだけ正確に思いどうり引けるかという修練。

 

 年賀状を筆で書くとわかりますが、筆で描くのが難しいのは曲線。小さくとも円が難しい。もっとも、一メートルの長さの線を描くのも相当難しいですが・・・・。

 

 つまり、筆力による作画を実現させるための修行をまず始めに課したのでしょう。

 むごいくらい大変な課題ですが、しかし、基礎授業としてこれは、良い!

 即戦力になります。今だって、これくらいのことを大学ならさせるべきだと筆者は想いますが、いかんせん、教えられる先生がいないんです。

 今現在、一メートルの同じ幅の直線を一気に描ける人は、筆者を含めて、数えるほど僅かしかいないでしょう・・・・・。

 今の大学の先生は、職業的な先生であって、画家ではない方が殆どですから、絵の事は知らない絵の先生ばかり。勿論線なんて引く必要もアリマセン。

 日本画がなくなるわけですね。






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福島県、磐梯山の西側、青い水をたたえた雄国沼があります。




その湖畔に、広大な花の園が!。 花の名所として有名、初夏から夏にかけて多くの人が訪れます。


 一方通行の木道が整備され、例えば雨の中でも、水にぬれる小花たちにうっとり、水芭蕉、立山竜胆、沢桔梗、などなど・・・。


 帰り道には、裏磐梯の温泉が待ってます。地味だけれど、しっとりと“よいところ”、なのが福島県!!






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  ニッコウキスゲ





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ワタスゲ   行ってみたくなりますねー。





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これが【ヒオウギアヤメ】

 アヤメの原種と言われています。根元の方の茎と、葉の揃い方が、開いた檜扇に似ているので、この名前に。

 秋には美しい黒き実が、“ぬばたま”の語源になりました。


 秋篠宮紀子妃殿下のお印でもあります。



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 90歳の長命を全うした大名人、横山大観は、春草の天才に惚れ抜いていました。

 時に自分の作品を褒められると、

“春草君の方がずっと上手い、あれこそ金の瓦。俺なんか普通の瓦だよ。”といっていたそうです。

事実、ある時期のこの二人の作風がとてもよく似ていて、どちらの作品か判別しにくい事もあり、どうやら、あの、大巨匠、大観先生が、春草を真似ていたのではないかと思われるふしさえあるのです。春草没後、直後に開催された春草記念展に【五柳先生】と題して尊敬と敬愛とを表現し尽くそうとした新作屏風を大観は捧げています。

 菱田春草と言う夭折の画家は、実に稀に見る天才が惚れこんでしまう様な、桁違いのポテンシャルを秘めていました。せめて、60以上の齢を与えられたら? と思うと、心底残念でなりません。

 今も尚このお二人の余慶のお陰で、かろうじて成り立ってきた日本画壇もそろそろ、お二人の遥かなる業績に立ち返らなければ、早晩消えてなくなるだろうと私は考えています。

一対の美。ホンモノのセレブリティーをお楽しみ頂きましょう。

大観VS春草




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【紅葉】 菱田春草作 明治35年

    VS

同【滝】 横山大観作


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【寿老】 菱田春草作  明治34年

   VS

 同【布袋】 横山大観作



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【春秋(秋)】 菱田春草作  明治34年

    VS

 同【春秋(春)】 横山大観



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【飛泉】  菱田春草作  明治34年

     VS

 同【飛泉】  横山大観作




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生涯の友。盟友。 勿論、大親友。

菱田春草と横山大観 とは、とても親しかったのです。

大観は早世した年少の春草を師のように思い続けて、尊敬しつつ、長寿を全うしました。

春草も7歳年上の大観に素直に兄事しています。

お互いを強く、深く、敬愛しつつ、日本画の王道を再度、築くために全生涯を傾け続けたのが、このお二人です。

現在の日本画壇はこの二人のお陰でかろうじて維持されていると言っても過言ではアリマセン。

日露戦争の会戦当日に、アメリカ に渡航。

奇しくも日露戦争会戦後の終結の講和手段を模索していた伊藤博文が派遣する悲壮な覚悟の使節一行と同じ定期船でした。

このアメリカ 行きの最後の定期船に大観と春草も乗船し、使節団と同じ決死の覚悟で、日本文化を背負い、未来 に向けて出航したのです。

ボストン 美術館東洋美術部長、岡倉天心 を頼っての事。

壮挙と言うにふさわしい崖っぷちの暴挙???でした。

この盟友の【対】作品が残されています。

何れも日露戦争前後に描かれたもの。アメリカ にはまだ、未発見の対作品が残っている可能性もあります。

美校時代から、美術院創立初期にかけて、テーマを決めて、制作し会い、それをお互いに批評するという研究を続けてきた事もあり、同一テーマの対作品を描く事は、二人にとって朝飯前であり何よりの楽しみであったろうと思われるのです。

春草VS大観

どうぞお楽しみ下さい。




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夏冬山水 【冬】  菱田春草作 明治39年

      VS

同、夏冬山水 【夏】  横山大観 作  明治39年


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冬の鴨と夏燕の対比が優美です。






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秋の夕   横山大観 作   明治35年

    VS

同、 春の朝  菱田春草   明治35年



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曳き船と釣り船の対比。








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飛泉(ひせん)   菱田春草作  明治34年

   VS

同、飛泉(ひせん)   横山大観 作  明治34年



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瀑布の対比。

水音が爽やか!!!

少し映像が見難いですね、

ホンモノで味わいたいところですが・・・・。



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日本画と共に、 日本文化を語ろうとするとき、必ず見逃せないのが装束。

 衣食住と言う通り、必ず真っ先に出てくるのが衣装です。

  

 勿論振袖も日本の衣装としての代表と思われますが、それは上辺の事。

平安時代に確立された、といわれている十二単 、と総称される装束こそ日本文化の真髄ですね。

 私が装束に興味を持ったのは、源氏物語の絵を連作しようと意図してから。随分研究しましたが、まだまだ、面白さの核心には程遠いですが。

 先ず、私が、これまでに参考とし、教科書のように学んでいる本をご紹介しましょう。

 (株)オクターブ  【十二単 のはなし】  現代の皇室の装い

             仙石宗久 著

 誠文堂新光社   【素晴らしい装束の世界】  

            いまに生きる千年のファッション   

             八条忠基 著

 京都書院   【かさねの色目】  平安の美裳

             長崎盛輝 著

 【十二単 のはなし】 が、特にお勧めです。

高倉流の本流が、格調高く解説されていて、奥深いことも分かりやすく理解できます。  

【素晴らしい装束の世界】は、とっつきやすさが楽しい本。

【かさねの色目】は、ちょっと、本格的。かさねを楽しんできた平安人の美意識を深く知ることが出来ます。

  天皇陛下、皇太子様、のご装束姿をご覧下されば、日本文化の真髄が、誰にでも感じられることでしょう。





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