1985年に、ビックリマンチョコがブームであったそうだ。
これは僕はどハマりの世代であったはずなのだが…
学年的になのか、地域的になのか、はたまた僕の個人的な関心のなさからか…あまりそのブームには、僕は乗っかってはいない。
このビックリマンチョコ自体は知ってはいるが、そのギミックである悪魔VS天使のシールというのを集めた記憶が、僕には全くない。
1987年からはアニメ化までされているので、間違いなくブームはあったのである…
勉強こそ、興味関心を持たなかったが、ことホビーに関しては、独自の嗅覚を持ち、その全てのジャンルに食い込んできた僕が興味が無かったのであれば、少なくとも僕のクラスではそのブームは発生してないか、瞬間風速的に消えていたのだと思う…
僕のホビーに関する独自の嗅覚は、1983年に発売されたファミリーコンピュータにおいても発揮されている。
このテレビに繋いで遊ぶゲーム機を、クラスメイトの誰よりも先に購入すべく、お年玉を握りしめてオモチャ屋に走ったほどである。
そう、このオモチャは、必ずブームが来る。
そのように予見して、購入したくらいである。
しかし、僕はゲームがそれほど好きではなく、ファミコンのカセットは、2〜3本購入して終わりだった…
ホビーに関しては独自の嗅覚が働く僕が、ビックリマンを全く覚えていないのである…
小学生という世界は異常に狭いて小さい。
子供の頃は、校舎の東側のまどから窓から遥か彼方に、うっすら見えた東京タワーが、大人になると、30分以内でいける場所にあるとは、想像もしていないのである…
だから、社会全体で流行していても、クラスで流行っていなければ記憶に無いのである。
それ以上に、修学旅行にいく日光の付近で撮られた心霊写真やら、自然教室でいく箱根ねお玉ケ池の幽霊の話の方が、世間の流行りより、重大になってしまう可能性があるのだ。
だからこそ、教室というその小さなコミュニティの中において、自己主張を繰り返しながら大人になるのだと思う。
しかし、こんな小さな世界観しかない小学生にも、日本という国には、ある義務を課している。
憲法26条2項で保障されている。
それは、教育を受ける義務だ。
学校に行って、勉強をしなさいと言っているのだ。これは、義務であり権利でもある。
もし、学校に行って、学級崩壊するように担任以外の先生が指示を出したなんてことがあれば、これは義務を放棄しろと命じたようなものだ。
仮にだ、いじめの対象になっている先生が気に入らないという理由だけで、生徒の権利を無視し、学級崩壊を指示したのであれば、極論であるが、税金を払いたくないから、税務署をぶっ壊してやるって理屈くらいに、ぶっ飛んだ話しだ。
神戸東須磨の小学校の教職員のことである。
もはやテロだ。救済の余地もない。
身内可愛さなんだろうか…校長先生は、会見でハラスメントへの認識の甘さという発言している。
小さな世界観の中で生きている小学生は、時に善悪がわからなくなる。
自分と異なるもの、異なる考えなどは、この小さな世界から排除したがるのが常だ。
異質なものを排除する行為こそ、いじめだと僕は思う。
しかし、僕らを教育してくれた先生達は、そんな小さな世界観を、少しづつ広げていってくれたのだと思う。
世の中は、自分と異なるものばかりである。
だからこそ、自分を守るためにも、相手を理解していく、受け入れていく必要がある。
そしてそれを受け入れること自体が大人であると教えてくれていた気がする。
この加害者達は、校舎の東側のまどから窓から遥か彼方に、うっすら見えた東京タワーが、大人になっても30分以内でいける場所にあるとは、未だに想像すらできない環境にいるのだ…
大人になれなかった大人は本当に惨めだ…