1.はじめに

 

 この土日は進めないといけない報告書の作成を途中で放り投げて、鈴木大拙(1870₋ー1966)の本を熱心に読んでしまいました。鈴木の主張に、仏教へのより強い関心を抱いただけではなく、明治期から戦後に生きた一人の日本人が到達した世界観の奥深さに胸をうたれました。

 

 また鈴木は哲学における京都学派の祖である西田幾多郎(1870-1945)とも交流があったそうで、鈴木が言うには西田哲学はその著書を読んだだけではわからない。西田幾太郎という人間の人生の歩みを観なければ理解できないと述べていたそうです。蛹は難解として有名な西田の『善の研究』を概論でしか知らなかったのですが、鈴木と西田に関する交流を調べるうちに、西田がその人生の中で何度も味わった肉親の喪失体験が、西田の哲学に強い影響を与えたことも知りました。こうして蛹にとって、西田哲学で思いつく言葉である「哲学の動機は『驚き』ではなく深い人生の悲哀でなければならない。」という有名な言葉が生み出された背景を理解できました。

 

 さて、FFXIのブログにも関わらず、西田幾多郎の話を始めてしまいましたので、驚かれた読者様もおられたかもしれません。それどころか「ゲームと関係ない話をまた始めたな」と感じられた読者様もおられるかもしれません。本日の記事も、ヴァナディールという仮想世界で遊ぶ「冒険者」の方だからこそ、お時間を取ってお読みいただけたらと願い文章をしたためてみます。

 

 

 

 「日本近代の思想に計り知れない影響を与えた西田幾多郎(左)と鈴木大拙(右)」

 

 

 

2.悲哀を歌にして

 

 物事を考える始まりは、悲哀でなければならないと西田が考えるようになったことをご紹介いたしました。西田が生きた時代と私達が生きた時代は全く異なります。では西田の言葉は現在の私達には届かないものなのでしょうか?

 

 この問いに向き合うため、大勢の方に周知されて親しまれている曲を取り上げてみます。その曲とは子供向けアニメである「アンパンマン」のオープニング曲である「アンパンマンのマーチ」です。今回の議論に関わる部分を少し抜粋いたします。

 

 

■「アンパンマンのマーチ」の抜粋(※1)

 

①「なんのために生まれて なにをして生きるのか こたえられないなんて そんなのいやだ」

 

②「なにが君のしあわせ 何をしてよろこぶ わからないままおわる そんなのはいやだ」

 

③「時ははやくすぎる 光る星は消える だから君はいくんだ ほほえんで」

 

 ③はフルで聴かないとなかなか聴く機会はないかもしれませんが、①②は耳にしたことがある方がほとんどではないでしょうか。作詞はアンパンマンの原作者のやなせたかしさんです。やなせさんは、特攻隊として若くして亡くなった弟さんを偲んでこの作詞をされたという逸話が残っています。確かに、子供向けの歌にしては、どこか思索的であり、まるで「自分を押しつぶそうとしてくる逃れられない運命」に抵抗しようと必死になって生きようとする人間の姿が浮かんでくるような歌詞にみえます。蛹は、この歌を聴くたびに、戦争で亡くなっていった大勢の日本人達の無念に心を寄せるようになりました。

 

 ①と②が訴えてくる問いかけは、どの時代、どの地域に生きたとしても常に問われる普遍的でありかつ悲痛な心の叫びではないでしょうか。そして③の歌詞が述べているのが人生の短さ、儚さです。「光る星がきえる」とは、例えば「未来への希望」であったり「恋」であったり、「青春」といった永続的に続くことがないけれど人生の美しいものがもつ儚さを表現しているようにみえます。これらを踏まえた上で、やなせさんはそれでも「ほほえんで」と私達に訴えます。

 

 この「ほほえみ」は決して単純な喜びから生まれるものではないことはすぐに感じとることができます。この「ほほえみ」はあまりにも残酷な人生に対しての精一杯の強がりのようにさえ響いてきます。この強がりの裏を返せば、それは全ての命が限られた時間しか生きられないことに対する無力感であり、悲しみの表現ではないでしょうか。このように、西田が思考の第一歩として重視する悲哀という主題が、やなせさんの歌の中で見事に表現されていることが伺えます。

 

 蛹は、西田が述べている「哲学の動機は『驚き』ではなく深い人生の悲哀でなければならない。」という主張とこの「アンパンマンのマーチ」が提示している世界観が日本文化という母体を媒介にして共振しながら、人生に対する悲しみを訴えているように感じてきました。このようにこの歌をとらえた時、西田の考えは現代の私達が今なお課せられている哲学的な問題であると言えるのではないでしょうか。

 

 

3.「現実」とヴァナディールという仮想世界

 

 私達はFFXIというゲームが提供しているヴァナディールという仮想世界を長らく親しんできました。時には日常生活をおろそかにすることもあったかもしれません。時に家族や友人との付き合いよりヴァナディールでの人間関係を優先したことさえあったかもしれません。また仕事や学校といった「外」を持たない方にとってヴァナディールは他者と触れ合うことができる「外」、つまり社会そのものだったこともあったでしょう。

 

 ヴァナディールの世界は現在22年(2024年7月の時点)続いていますが、どれほどヴァナディールの世界に心も身体も費やしたとしても、動かしがたい「現実」があります。その「現実」とは生物学的な個体の死です。ヴァナディールが今後末永く続いたとしても、その前に私達の人生の方が先に終わりがくるかもしれない。これはどんなに若い「冒険者」の方であったとしてもこの「現実」から逃れられません。

 

 もしかしたら仮想世界であるヴァナディールは、私達に「死という終わり」を忘れさせる「夢の国」だったのかもしれません。この「夢の国」は「現実」が私達の心の中に生み出す「悲しみ」さえ忘却されてくれてもいたのでしょうか。だからこそ「死」を恐れる私達は今でも「ヴァナディール」という「死が見えにくい夢の世界」(※2)にいたいと感じているのかもしれません。

 

 

4.悲しみが教えてくれる価値あるもの

 

 西田は、思索の始まりには悲哀が必要であることを私達に教えてくれました。悲しみは私達が生きる上で何をもたらしてくれるのでしょうか?まずは一番最初に想起するものが、心の苦しみでしょう。この苦しみは一時的に忘れることはできたとしても、決して癒えることはないのかもしれません。こうとらえると、悲しみは人生を「幸せ」に生きる上で不必要なものにさえみえます。

 

 蛹も、これまでの人生を通して、つらい体験をしたときほど「なぜこれほどの苦しみを味わうのに生きなければいけないのか」という怒りにも似た感情を何度も抱きました。でもこうした体験があるからこそ理解できる人生の機微があることを、2年前の京都の広隆寺の弥勒菩薩像を前にして体感しました。

 

 それは、逃れられない悲しみがあるからこそ、私達は限りあるものに「尊い」という感情を持つことができるという心の働きです。「尊い」という感情とは、限りある命を与えられている存在が到達することのできる感情の中でも、もっとも深遠なものの一つではないでしょうか。

 

 「尊い」という感情があるからこそ、私達は数多くの「他者」の中からある特定の人を「特別な存在」として認知することができるのでしょう。蛹はこの「尊い」という感情を、今の私達は日常生活で感じにくくなっているのではないかと考えだしています。その理由の一つとしてあげられるのが、「推し活」です。私達は「現実」「仮想」のどちらの世界においても「推し」を見つけだし、「尊い」という感情を抱き支援をし始めています。

 

 このような現象がおきるのは、先人たちが当たり前のように日々の生活で感じられていた「尊い」という感情を、現代を生きる私達は日常の対人関係の中で感じにくくなったからこそ、補うために起きている現象だととらえられるという立場を取りたいです。なぜ「尊い」という感情を感じ得にくくなってきているのかは、社会学者の宮台真司先生が仰る「感情の劣化」という概念である程度説明ができるのかもしれません。

 

 平成になってからでしょうか。学校の卒業式で「仰げば尊し」という頌歌が歌われなくなってきたそうですね。また「仰げば尊し」が歌われなくなったことも、「尊い」という感情を抱く心の原風景の喪失につながっていっているのかもしれません。この「仰げば尊し」の歌詞である「我が師の恩」とは、学校の先生だけに留まらないのではないかと蛹は考えます。「師」とは、私達になんらかの気づきを学びをもたらしてくれるものなら、それは「師」と呼べるのではないでしょうか。たとえそれが反面教師であったとしても。

 

 このように考えた時、私達は日常生活やヴァナディールの世界で接する他者から日々何事かを学ぶことができるという意味において、私達を取り巻く他者は「師」たりえると言えるのでしょう。「仰げば尊し」とはこれまでの時間を振り返ってみれば、学びの日々と学びを与えてくれた「師」と過ごした時間やそこで体験したことは「尊い」ことであったということを歌っていると蛹は解釈しています。

 

 このような意味において、人生の学びを提供するヴァナディールという世界そのものが「仰げば尊し」と言える仮想世界ではないかと蛹はとらえだしています。ですから、ヴァナディールという世界は私達冒険者にとって「尊い」存在だと言えるのではないでしょうか。この考え方は、2024年2月、所沢市で開催された「ヴァナディールの異聞『朗読劇 異聞のウタイビト』」というイベントに参加して確信になりました(※3)。

 

 

 

 

5.最後に

 

 ヴァナディールという世界で出会う「冒険者」様たちの中で互いを「尊い存在」として認めあえる関係をたった1人の人との間であったとしても築くことができたとしたら、それはFFXIというゲームを通して味わえる素晴らしい体験の中でも、最も価値ある体験の一つに他ならないのではないでしょうか。このような体験は、巨大な敵を倒した時に得られる達成感や得難いアイテムを手にしたときの喜びとは異なる水準で、私達の人生を豊かにしてくれるように見えます。

 

 

 

 

 

■脚注

 

※1)アンパンマンマーチの引用元

 

 

※2)ヴァナディールの「冒険者」であったプレイヤー様が、ご病気や事故などで亡くなったという訃報をSNSなどを通して知る機会はありますので、ヴァナディールの世界にも死があるということができるかもしれません。ですが、その死は直接的にふれることはできなく、その方のご遺体を接することでさえヴァナディールの世界の中では不可能です。ですから、やはりヴァナディールは個体の生物学的死が見えにくい世界であると言えるのではないでしょうか。

 

 

※3)「異聞 ウタイビト」に参加した時の記事はこちらから。

 

 

 

■追記

・加筆。(2024年7月9日)

・絵の挿入。(2024年7月9日)