1.はじめに
 
Twitterで投稿した文を加筆し転載いたします。
 
本稿は、不登校、ひきこもりに関する考察記事ですが、訴えたいテーマを鑑みFFXIプレイヤーの読者の皆様にもご一考していただきたいと考え記事化いたします。
 
 
2.社会的分化と不登校、ひきこもり
 
なぜ不登校やひきこもりの人達が増加しているのでしょうか?小学校と中学校の不登校児・生徒は約30万人、ひきこもりは約146万人のスケールで存在するのか?考えをまとめてみました。
 
まずは、不登校やひきこもり自体を社会問題とすれば当事者はますます追いつめられます。
 
ですから、追いつめるのではなく、彼ら彼女らがうまれる原因を考察することで、当事者様達の苦しみを和らげる議論の土台となる青写真が作れないか考察を始めます。
 
不登校やひきこもりは社会現象と呼べるでしょうから、社会学の見地を取り入れてみましょう。私達人類の築いてきた社会の潮流の一つが社会の分化であることは、デュルケームやルーマンといった社会学者達が主張してきました。近代以降ますます社会的分化はその加速度を増していますが、社会のこうした変化は私達の感情や感性にも影響を与えているのでしょうか。
 
身近な例で考えると、社会的分化によって生まれた「基本的人権」や「自由」が自由恋愛の美名のもと、家族の作り方や在り方を変え、家族をつくることから排除される人がでてくるといった一種の疎外化現象、自由が自由を奪うという逆機能さえおきていることが確認できます。
 
私達は、いつの間にかどんな感情を、どんな価値を大切したらいいのかという自己決定さえも社会システムに委ね頼りすぎた結果、自分にとって大切な人の存在すら理解できなくなっているのかもしれません。
 
このような具体例として大変顕著でわかりやすいのが経済システムの象徴的に一般化されたメディアである貨幣です。貨幣は現実の複雑性を全て、量という単純な交換システムに貶めてしまっています。大切なことが質ではなく量として評価されてしまっている社会を築いてしまっているわけです。命ですら貨幣の対象から逃れられないんです。これでは、命の価値を貨幣に変換して評価する人達がでてきてもおかしくはないでしょう。
 
現実の複雑性の処理を社会システムに過度に依存しすぎることは、人生を受け止めるのをかえってますます困難にしているかもしれないんです。
 
具体例をもう一つ挙げます。
 
性的な表現を強調する視覚コンテンツがインターネットなどで、広告として目につくことがございます。
 
それらの扇情的な表現には、現実の性愛がうみだす従来の人間関係モデルを簡略化させ、コスパ、タイパ的に速やかに効率的に刺激が「消費」されることを最大化する強い意図を感じます。
 
一見便利で都合が良いよいにみえますが、これは諸刃で、生身の身体性を伴う性愛を感受するための能力を育む機会を奪っているのではないでしょうか。
 
性愛に対する葛藤や悩みを通した試行錯誤なくして、性的なものをともなう関係性を適切に築くことが難しいのは当然でしょう。
 
社会システムが現実の複雑性をますますとりこみ高度になるほど、人はますますシステムに依存していくとルーマンは述べています。その結果、生きる意味や価値とは社会が与え、自分の人生さえも社会が評価してくれるのだと勘違いする人間が生まれてしまう可能性が増大します。
 
そうした人間が増える一方で、「社会が与えた価値でしか生きれないのはつらい」と感じる人間もまたでてくるのは人間の多様性(ニューロ・ダイバーシティ)に他ならないでしょう。
 
「自分で価値を見出すことができる力」があることを学ばしてくれない社会に対して、怒りや戸惑いを抱いたり、失望している人達がいるのかもしれません。こうした感情を一番感じているのが、実は不登校やひきこもりの方なのではないでしょうか。
 
「生きづらい」とあげる悲鳴は、システムへの依存化を強制する社会を知らず知らずのうちに背負わしてくる現実の選択権のなさから生じる苦しみの表明であり、精一杯の異議申し立てなのかもしれません。
 
そう考えると、現在の日本だけではなく世界の様々な社会問題とみなされがちな現象の背景には、機能的分化社会が陥っている個体の社会システムへの過度な依存という「病理」が垣間見えてるのでしょうか。
 
 
3.まとめ
 
自分を取り巻く「社会環境」や他者からの視線ばかり気にし、一番大切な自分で決めなければ解決できないことすらも、外部に決めてもらおとする「受動性」を知らず知らず私達は身につけてしまっているのかもしれません。※1
 
「受動性」は、おかれた社会に順応しようとする個体の社会化の証でもありますが、同時に過度な社会システムへの依存によって、自分で決めた方が望ましいことさえもその決定権や決定する意志を奪われ犯されていることに気がついている人達が、社会の中でどう振舞っていいのか迷い葛藤をしているのではないかと考え始めています。
 
たとえ、このような言語化ができなくても、身体が動かない、心が麻痺するといった形で身体が表明している場合があるのではないかと、自分自身の体験だけでなく、心に苦しみを抱えている様々な人達と職場などを通じて感じ考えてきました。
 
不登校の方やひきこもりの方に、まず必要なことは
 
①おいつめられないこと
②安心できる場所と時間の確保
③自分には物事をきめる領分があり、それを決める力を持っていることを学ぶこと
④生きる意味や価値は自分で決めていいことを理解すること
⑤そうした学びや気づきの場とのつながる可能性を信じること
 
かもしれません。
 
また社会は、不登校、ひきこもりの方だけではなく、社会的排除の対象となる者でさえも社会の中に「居場所」を見つけられるぐらいの複雑さを保つことが求められているのでしょう。これこそが、刑罰を厳格化するよりも効果的に「無敵の人」を社会がうみだすのを防止するのに寄与すると考えられるのではないでしょうか。
 
また、そうした複雑さは、社会システムがもたらす「常識」や社会通念に縛られがちの私達に、もっと自由に自身で人生の意味や価値を生み出す力を取り戻させる「解毒」のような機能を持つようにもみえます。
 
 
4.脚注
 
※1
記事のテーマから少し逸脱しますが、日本の政治に対する無関心が作られる理由の一つに、政治は政治に興味のある人達に委ねれば、センスティヴな問題に触れず他者と円滑なコミュニケーションができる。それゆえに政治に無関心の方がメリットがあるととらえる空気があるのかもしれません。
 
個体のコミュニケーション戦略としては合理的な振る舞い方であり、メリットがあるようにみえますが、このような政治を既存の政治システムに委ねる人が増えた結果、選挙で全体からみたら少数派の組織票が価値を帯び、その結果として現在のような縁故資本主義が蔓延るようになったようにみえます。これも既存の社会システムに本来自分達に決定権があることすら委ねてしまうことで生じる「歪み」に思えます。
 
 
追記
・2024年2月7日の投稿文を加筆と誤字訂正。
・校正。(2024年2月7日、8日)
・脚注を挿入。(2024年2月7日)