1.はじめに

 

今日はLSの方達と大いに遊びました。

 

ある方とも遅い時間までお話をいたしました。

 

今回の記事は、蛹自身も同じ課題を背負っているあるテーマについて述べたいと思います。本記事は誰か特定の人のために書いたものではありません。

 

特定の個人の心の問題を俎上にするのではなく、誰しもが抱え込む可能性のある心の問題を扱おうと思います。

 

  

 

2.なぜ「不適切」なコミュニケーションをとろうとする人が絶えないのか

 

 

①「未規定性」

 

日常生活でもヴァナディールの世界でも、私達は他者とのコミュニケーションがもたらす関係性の中に生きています。私達は、人によって様々な千差万別の異なるコミュニケーションと関係性を続けてきました。

 

大勢の人に支持されるコミュニケーションもあれば、誰かを不快にさせるコミュニケーションでさえも行うことができる可能性を社会は有してきました。特に現代ではこの可能性がますます高まってさえいるように見受けられます。

 

この可能性は、選択肢という形になって社会システムから提供されますが、同時にある課題を私達に突きつけてきます。

 

その課題のことを社会学者のルーマンは「未規定性」と表現しました。

 

ルーマンが提唱する「未規定性」を厳密に述べようとすると定義を述べることが主訴になり、本題からはずれるので、簡易な定義に落とし込んでみます。

 

「未規定性」とは、まだ社会システムによって複雑性が縮減しきれていない宙ぶらりんな可能性とでもしておきましょう。

 

「未規定性」が示すことの一つに、私達の可能性は全て社会に委ねられているわけではないという論点です。

 

具体的な例で示すと

 

「自分のネガティブな感情を相手にぶつけたい。どんな表現でどんな態度をすればいいか?」は、あなた次第でいかようにも異なる行為を決定する余地があるということでもあります。ネガティブな表現をさける可能性さえ持っているんです。

 

人によってその内容は異なるでしょうが、相手に感情をぶつけることは恋愛のような場面では必要なコミュニケーションでもありますが、相手と時と場所次第では罵り合いになったり、喧嘩になることもあるでしょう。

 

以上を整理すると、私達は社会の中で「未規定性」を抱えながら、可能性を取捨選択してコミュニケーションを行うことが要請されている。けれども全ての人に「未規定」がひらかれているからといって自分本位、自己中心的すぎるコミュニケーションを行えば、相手との間に過度な緊張関係をもたらすことが起きてしまうという論点が浮かび上がってきます。

 

 

②自己中心性と他責の関係

 

自分のことしか考えられない、もしくは過度に自己評価を高めようとするために他者を低くく価値づける方達の行動には、ある一貫した心理的なメカニズムが働いています。

 

そのメカニズムの一つをあげるなら、自己中心的な方は自分こそが価値のある人間であり周りは自分より劣っていると思いこむ傾向ですが、これは自己が抱く理想の自己イメージを維持するために用いられる心の構造です。このような心理を引き起こす理由とは、適切な自己イメージと自己肯定感の無さに由来することが考えられます。セルフイメージと他者から見た人格像に大きな落差を見つけられる方だと言ってもいいかもしれません。

 

こうした方達は、適切な自己イメージを持ち得ない結果、相手を過度に落としめたり、逆に過度に信奉したりします。一見真逆の対応にみえますが、自己が抱く自己像に付与した価値を傷つけないという面で機能的に等価です。

 

自分が抱いている現実からみたら遥か遠くにある理想の自己像とそれによる自己効力感を保つため、他者から非難された時、その非難する相手だったり、過去の出来事だったり、自分の人生を「狂わせた」と思っている人に、その非難の責任を背負わせようとさえします。

 

つまりこれが他責ですが、他責的な方法でしか他者との関係性を築けれなければ、他者は離れていくでしょう。このような方達は、自分の歪んだ自己像を保つために人を傷つけてもいいとみなしている人達であると指摘できるかもしれません。この意味において、他責的すぎる人は倫理的な問題を常に抱えています。

 

 

③人間としての悲しみを悪用する人達

 

数学者の岡潔先生によれば、人間は誰しもが人間としての喜び、悲しみを抱えているそうです。

 

喜びは他者から妬まれることもあるでしょうが、生きている意味を味あわせてくれる素晴らしい感情です。

 

一方で悲しみは、時として同情や共感という形で他者から認められることがあります。この他者からの同情や共感を利己的に利用して他者を自分の都合のいいようにコントロールしようとする人がいます。

 

更に問題なのが、相手からの同情心や関心を惹くために嘘をつく方がいらっしゃいます。虚言癖といわれる症状になるのでしょうか。本人はバレていないと思っているかもしれせんが、虚言癖の人の嘘、ないしは日頃から自然と嘘をつく人の嘘は、ある程度の人間関係を築けている人なら、嘘だとすぐに見抜かれてしまいます。なぜこうした人達は、自分の嘘がバレないと思えるかというと、他者と深い人間関係をこれまで一度も築いたことがないからではないかと蛹は考えています。

 

他者と深い関係性を築いているご経験があれば、嘘によって信頼関係とは容易に壊れてしまう、関係性を失ってしまうという嘘が持っているネガティブな機能とリスクを理解できているので、必要最低限の嘘をつくことはあったとしても、過剰で不必要な嘘を言わないことのメリットを把握できるわけです。一方で、虚言癖の方の嘘は必要最低限の嘘の範疇を平気で超えてくるので、すぐにバレてしまうのです。

 

いずれにしましても、ネガティブな感情や嘘などで相手を自分の思い通りにしようという態度もまた、相手を非常に傷つけ悩ませる非倫理的な精神的な態度だと言えます。

 

また、相手が今まで通りの自分が望む反応をしなくなっただけで「裏切られた」と表現する人を蛹も何度も見てきました。こうした方は特に無自覚であることが多く、無自覚であるほど相手を利用しようとする内容が悪質になっていきます。

 

 

 

3.心の問題とどう向き合えばいいか

 

まず正解がない世界だということを指摘いたします。正解がないからこそ、誰しもが自らの心の問題と真摯に向き合いかつ苦しまなくてはいけないんです。しかし、もし心の問題から生じる苦しみから何某かの価値ある意味を見つけることができたなら、それは嘘偽りのない成長した価値あるあなたに他なりません。一方で、苦しみから逃げた人の一つの例が、さきほどまでに述べた自己中心的な人になります。

 

私は人に嘘をつかなければ、自己の価値を確かめられない。私は相手を見下さなければ、自分の社会的価値を感じることができないといった人達に助言があります。

 

それは、一度これまでご自身が相手にしてきた行為の中で、非倫理的なものがなかったのか自省されることをお薦めいたします。

 

ご自身の心を適切にみれない方は、鏡を見ながら鏡に映った自分と対話してみてください。

 

鏡に映ったあなたが本当のことを述べているのか、欺瞞でごまかしているかは、誰よりもあなたが実体験を通した体験から判断できるのではないでしょうか?

 

蛹は思います。どんな環境の元に生まれてこようとも、非倫理的であるが故に他者から色物扱いされるような卑しい自己のまま生きるのか?それともたとえみずぼらしい自己像であっても、そこから出発する勇気を持ちより良き人生を生きるため、他者だけでなく自己に対しても誠実に生きることを望むのか?

 

これを決定するのは環境でもない、他者でもない、あなた自身しかいないという非常に冷徹に見えるこの理を現実として受け止められられる強さをあなたは意識して持とうと望まれますか?それともあきらめますか?

 

この選択はあなたしか決められないんです。あなたしか自分の人生に責任を持ってくれる人はいないんです。大変きびしい現実がここに枝分かれしています。こうした選択の場面とは、その人の本質的な人間性、品性といったものが問われているように思われます。

 

もし自己をより善きものにしようと志向するなら、あなたを理解してくれる他者が現れるかもしれません。

 

他責的にしか関係を築けてこなかった方でも、現実のありのままの自分を受け止める勇気と可能性を誰しもが宿していると、ロマンティストと言われるかもしれませんが、私は信じています。

 

その可能性を信じることもまた、人間の悲しみを受け入れて生きていくことと同じことだと考えるからです。

 

 

追記

誤字・乱文訂正。(2023年8月19)