数日前からある一連の動画の虜になっています。

 

それは象の動画です。動画には白人男性が登場します。その白人男性はなんと象にピアノに弾き聴かせるのです。

 

「象になんてなんでピアノを聴かせているんだろう?」って思いながら動画の詳細欄を見ました。

 

その象は何十年という長い年月を過酷な労働の元酷使され、目も見えなくなった年老いた象だったんです。

 

動画はベートヴェンのピアノソナタが演奏されていました。象はなんだかピアノに聴き入っているように見えます。

 

そして

 

象は涙を流しだしました

 

この動画に大変大きな衝撃を受けました。

 

象について色々調べると、象は感情豊かな動物だという報告があることがわかってきました。

 

こうしたことを合わせて感じたことは

 

ピアノの演奏に涙した象は、ベートーヴェンが表現しようとしたかったことをもしかしたら理解できたのではないか?ということです。長い苦しみの果てに残り少ない時間を生きる盲目の象は、「生きているからこそ感じ取れる命の輝き」をピアノの音色から感じとったのではないでしょうか。この象にとってそれは盲いた目でも見えた労りの光だったのかもしれません。

 

蛹は思います。このPaul Bartonという白人男性が試みていることは、音楽とは人間だけのものではない。言葉では伝えることができない言葉の通じないような命に対してさえも、人間が感じる感情を伝えることができる伝達手段の一つが音楽であり、人は言葉に頼らず、いえ言葉を越えて、生き物とコミュニケートできるんだよっていうことなのかもしれない。そんなことを思いました。

 

さて本日は、"piano for elphants"というキーワードをユーチューブで検索すると出てくるPaul Bartonさんの動画を見続けて構想を練ってきた論考をまとめてみたいと思います。

 

 

論考「『効率化・最適化』に抗うためには」

 

1.社会を覆う「効率化」「最適化」

 

このブログでは、「効率化」の危険性について何度か記事を書かさせていただいてきました。昨日、落合陽一先生と東浩紀先生の対話の動画を見て理解したのですが、どうやら蛹のこの危機意識は、効率化の危険性を指摘している宮台真司先生だけではなく他の識者も共有している問題意識であることがわかりました。

 

「効率化」は近代以降の社会が目指し続けてきた一大テーマの一つでもあります。「効率化」は富をより早く生み出すことを可能にさせ社会を物質的に豊かにさせてきました。同時にその豊かさが世界規模の大戦を可能にもさせたことは歴史の反省として踏まえておかなければいけないのでしょう。

 

近年、この「効率化」を更に先鋭化したような考え方が社会を覆いつつあります。それが「最適化」です。

 

YouTubeなどでも顕著ですが、自分の嗜好に合わせた動画がAIによって勧められてきます。そこには、「いちいち自分が見たいものを調べる」という「煩雑な手間」が省略されているように見えます。これは「最適化」の一例ですが、数理系の学問ではこの「最適化」は大きなテーマであり続けてきましたし、これからもそうなのでしょう。長年数理系で培われてきた「最適化」の技法がAIの力によって社会の様々な分野に解き放たれている時代を私達は生きているのです。

 

「効率化」「最適化」は社会をより合理的にしより便利にさせてきています。現代社会の利便性の上に生きるものならばどんな人であっても、この合理性の魔力に頭を垂れざるえません。まるで社会は「効率化」「最適化」の二度ととかれることのないほど強力な「魔法」にかけられ続けていくようにさえ見えます。

 

 

2.「効率化」「最適化」で失われるもの・引き起こされるもの

 

一方で、宮台真司先生、東浩紀先生、落合陽一先生のような方たちは、この「効率化」「最適化」に対して警鐘を鳴らし始めています。

 

その警鐘には、「効率化」「最適化」で失われるものがあり、また新たな問題が浮上するという提言が込められています。

 

まず失われるものとはなんでしょうか?

 

①質(クオリア)

その一つが「質量のあるもの」だと述べておられます。例えば昔音楽を聴くとしたら演奏会場までいかなければいけない。もしくは録音媒体を再生機にかけて聴くという行為が伴われており、録音媒体などの「質量のあるもの」も音楽体験の中に付随していたんだと。今私達は音楽のサブスクなどで音楽を聴くことができますが、そこに「質量のあるもの」は存在せず、「情報」しかないと述べられておられます。

 

②体験

私達は音楽を聴くという行為は、ただの「情報」を受け取る行為のレベルまで軽くなってしまっている。私達が望んでいたのは音楽「体験」であったはずなのに、いつの間にか音楽「情報」しか味わえなくなってしまっている。つまり身体感覚を伴った「体験」の喪失を「効率化」「最適化」は引き起こすという指摘です。東先生はまるで「体験」という「本物」を求めていたつもりが、「情報」という「本物」とそっくりな「にせもの」をもらうような一種の「詐欺」のようなことが起きていると述べておられます。

 

また「効率化」「最適化」によって引き起こされるネガティヴな現象もあります。

 

 

③感情の劣化

「体験」ではなく「情報」しか受け取れなくなった先に待ち構えているものこそが、宮台先生が警鐘を鳴らす「感情の劣化」でしょう。身体性を失ったただの断片「情報」しか享受できなくなった私達は、もう「本物の体験」「本物の感情」を味わうことができなくなる。そこで味わえるのはまるで疑似的な感情だとでもいえるのでしょうか。私達は感情が心に与える価値、もしくは感情そのものの価値を感じとれなくなってきているのかもしれません。

 

④言葉の自動機械

「情報」でしか物事と接することができなくなると、その先には「言葉の自動機械」になってしまった人間が出てきていると宮台先生は述べられています。「言葉の自動機械」とは自分の意志や考えに基づくのではなく、無意識のうちに盲目的に「情報」の構造に従って発言する行為を指しているようです。身体性を伴う「体験」から剥離した「情報」は、数学者の岡潔先生の言うところの「情緒」が喪失していると言えるのかもしれません。岡先生の考えに従うならば「情緒」なくして「論理」は理解できません。「言葉の自動機械」とは、表層的な言葉遊びに明け暮れ、自己の承認欲求を肥大化させ続け、傷つき傷つけを繰り返す浅はかさの中にいる私達を目覚めさせようとする批評的な言葉に見えます。

 

⑤エコーチェンバー

「最適化」が進むと、AIによって自分の嗜好に合った「情報」しか提示されなくなっていきます。自分ひとりだけの世界で「最適化」する分には問題がないように思えますが、「最適化」された「情報」に価値を見出す他者が多数現れた場合、「最適化」は新しい問題を内包します。これがエコーチェンバーです。この効果は、自分と意見が合う人達の中に囲まれていれば、その意見が「正しい」と思い込みやすくなり、異なる意見に対して排他的になりやすいというものです。社会の様々な分野でこのエコーチャンバーが発揮されれば、社会はますます分断されていくでしょう。私達はもう二度と異なる価値観であっても、お互いの手を取り合い微笑み返すことはできないのでしょうか。

 

5点ほどあげさせていただきましたが、議論が深まれば「効率化」「最適化」によって引き起こされる「社会の劣化」「人間の劣化」の論点は増えていくかもしれません。

 

 

3.「『効率化・最適化』に抗うためには」

 

私達はグローバルに進む「効率化」「最適化」の大きな時代の波に流されていくしかないのでしょうか?流されていくことに問題意識を持たない方もおられるでしょうし、抗いたいと考える方もおられるのではないでしょうか。

 

そこで、ここからはこの社会の大きな潮流がもたらす負の側面に対してささやかだけど無理のない範囲でできる「アンチ効率化・最適化」の技法を考えてみたいと思います。

 

 

①ゆったりとした何もしない時間を持つ

 

タイムパフォーマンス、いわゆるタイパという言葉が世間を覆い始めていますが、時間に効率性を求めれば求めるほど上記したようなことが失われていきます。その結果私達は「情報」の処理にばかり目が奪われ、その「情報」が訴えている価値をつかみとることなく、次の新しい「情報」に飛びつき続け、結局何も学ばず何も得られない人生を送ってしまうかもしれない。そうならないためには、あえて「何もしない時間を持つ」ことはどうでしょうか?

 

確かに「何もしない時間を持つ」ことはタイパの思想からしたら無駄でしかありません。時計もスマホも全部体から離してそういう時間を持つことができたとしたら、自分がいかに「コンテンツを消費すること」に追われて生活しているかを振り返ることができるかもしれない。もしかしたらこのような時間は、立ち止まってゆっくり考える時間を生み出してくれるかもしれない。そこで気づくことは、馬の目を抜くようなせわしない生き方ばかりが人生ではないということを理解する瞬間に出会えるかもしれないですね。

 

 

②あえて「無駄」なことをしてみる

 

コスパ、タイパの考えからしたら「無駄」に見えることを実践してみるというのはどうでしょうか?今の時点で「無駄」としか見えないことでも長い人生の中で何がいつどう役にたつかわかりません。蛹の例で申し訳ないのですが、高校生の時から歴史小説が好きになりました。自分の進学や専門性から遠く離れた分野です。でも歴史小説を通して、人間の「型」というか人生の様々な場面で人は何を考えどう行動してどのような結果を起こしてきたのか理解し、そして想像する力を養うことができました。この力はもしかしたら今の職場で若い人たちへの指導や助言に活きているのかもしれないし、人前でお話をする時のたとえ話の引き出しになったりもしています。もし蛹がコスパの考えしか持っていなかったら、このような引き出しを持つことはなかったでしょう。

 

ドラゴンクエストというゲームで「うまのふん」というアイテムがでてきます。なんの役にもたたないアイテムです。でも蛹はこのアイテムになんともいえない情緒を感じるんです。ふんに情緒を感じるというとなんだか変な目でみられそうですが、「うまのふん」という一見冒険に役に立たないものでさえも「アイテム」として認識できる主人公たちの視野の広さや「有用性」という狭い枠組みを越えて冒険している雰囲気を蛹などは感じます。言い方を変えるなら、窮屈さを感じない良さがあるということです。

 

「有用」な人物やアイテムしか登場しないゲームもあります。そのようなゲームがほとんどとさえ言えるかもしれません。でも「うまのふん」のようなアイテムは、ゲームという「人工的な世界」がより現実世界に近づける試金石でもあると蛹は考えます。もしこれからも「有用」な存在しか許さないゲームしか作られなかったら、ゲームはいつまで経っても「娯楽」でしかすぎず、「ヴァーチャルな世界」への橋渡しの役割を担うことはできないのではないかとさえ考えています。「人工的な世界」がどこまで現実の複雑性を吸収し表現できるか?これから大勢のクリエター様達が立ち向かわないといけない課題でしょう。

 

脱線しましたが、もしありとあらゆるゲーム体験というものが、ゲーム設計者の意図した選択しか選んではいけないというものであったとしたらどうでしょうか?蛹などはその窮屈さから逃げ出してしまいます。FFXIだけでなく、囲碁や将棋が長いこと娯楽としてあり続けられるのは設計者の意図を遥かに越える深くて広い「体験」を提供するから人々を魅了し続けているのではないでしょうか。ゲーム設計者の意図を越えた遊びがあることは、そのゲームが長く続いていく上での重要なポイントかもしれませんね。

 

 

③ヴァナディールでの抗い方

 

ア)「旅」に出る

 

蛹はよく目的もなく「旅」にでます。その中で通りすがりの新規様や復帰者様に声をかけたりする場面も幾度もございました。これは意図して会いにいって実現しているのではなく「偶発的」であるというところに意味があります。もしヴァナディールでの様々な出会いも計算され予測されたものであったらどうでしょうか。そこに新鮮な気持ちを抱くことは難しいのではないでしょうか。コスパやタイパの発想では決して出会うことのない出会いがそこにはございました。予想しない出会いは、「冒険感」であったり「旅情感」を与えてくれます。

 

 

イ)モグハウスの利用

 

モグハウスを茶室とみたてたらどうでしょうか?茶室では社会的身分や年齢や性別など属性を強調することは禁じられます。あなたは一人の冒険者としてモグハウスで好きな音楽を聴いたり、画面に映るアバターをモデルにして絵を描いたり、自分の冒険をもとにした英雄譚(詩)を作ったりされてみるのはいかがでしょうか?どんなことをされてもいいですが、どの行為もアバターの強さに一切つながらないというのがポイントです。これもコスパ・タイパの発想では「無駄」とされることでしょう。

 

でも、もしこの「無駄」を実行されたら、ヴァナディールが自分の人生に与えた影響やヴァナディールで出会った人たちとの思い出を振り返ったり、強敵との死闘と栄光を思い出せるかもしれない。それはゲームシステムが機械的に割り振る命令に基づいた時間では決してありません。自分の意志でつくりだした時間です。この時間はもしかしたら、自分はヴァナディールという世界が提示するコンテンツをただ作業的にクリアするだけの存在ではないという気づきを導くかもしれない。もしくはヴァナディールに対する「情緒」を発見することさえできるかもしれない。その「情緒」はおそらく現実生活の人生をよりよく理解することを手助けしてくれるでしょう。このブログでよく書くテーマですが、FFXIという「余暇活動」から学びを得れることもまたゲームの遊び方の中でも価値ある「体験」ではないでしょうか。私達は「ゲームシステムの奴隷」ではなく、「冒険者」という名の「ホモ・ルーデンス」として振る舞うことができれば、コスパ・タイパ思想からは生み出すことができない「余剰的ななんらかの喜び」「有用性を越えた純粋な遊び」を感じるとることができるのかもしれません。

 

 

4.最後に

 

「象は人間ではなくただの家畜である。だから音楽など聴かせる必要もないし、そもそも音楽など理解することなどない。」という考えに囚われていた方にとっては、記事の冒頭で述べた象のお話はショックだったかもしれません。蛹もそのショックをうけた一人でした。

 

「効率化」「最適化」は既存の知識や思想や趣向を強化はするものの、予想外の発見をかえって遠ざけてしまう側面があるようです。

 

一方でPaulさんの動物に対する愛はどこからくるのか想像できる方でしたら、蛹のこの拙い文章の核心をご理解いただけたのではないかと思います。

 

蛹はPaulさんの動画を見て、音楽の持つ可能性を理解できました。もし蛹が音楽の業界に身を置く立場で、コスパ重視で商業的にしか音楽を見ることができていなかったとしたらPaulさんの動画までたどりつけなかったでしょう。

 

音楽が動物の心を動かした。その動物たちは様々な電子デバイスを人間ほど使うことができないからこそ、「情報」としての音楽ではなく、人間の身体が動き、鍵盤が糸をはじき音が紡がれ、振動として音楽が伝わっていくという「体験」を私達よりも迷うことなく味わうことができている。そして象は涙を流した。

 

この事実の重みを感じ取ることができるなら、私達がこれから生きていく上で「効率化」「最適化」が進んでいく社会の中で

 

「何を大切にしていけばいいのか?」

 

ということを考える時間をもつことの大切さを理解できるのかもしれません。

 

 

追記

Paulさんがしたように、動物のような人間以外の存在とコミュニーケートすることは、もしかしたら「情報」という「体験」の抜け殻しか味わえない社会の外にでれる通路になるのかもしませんね。

 

動物たちの「自然」な姿を通して、私達はもう一度大切なものを取り戻すことができるのかもしれない。

 

動物にはこのような「人間にとって役に立つ家畜」という価値観だけには還元できない「共に限りある命を賛美し途絶えていく命に祈りを捧げることを共有できる存在」でもあるのではないかと考えさせられました。

 

 

追記を挿入。(2023年1月20日)

追記を推敲。(2023年1月20日、21日)

タイトルに加筆。(2023年1月20日)

本文を加筆。(2023年1月21日)