休憩時間、遅めのお昼ごはんを食べながら、職場外でツィッターを眺めておりました。
タイムラインに流れてきたある議論を、本日取り上げてみようと思います。
それは、他人から要望され持ちジョブを増やすことに抵抗感を感じる方と、他人と一緒に遊ぶために持ちジョブを増やした方がいいと考える方との意見の食い違いです。
先に断りますが、蛹自身は、両方とも主張としてあっていい、意見が食い違うことが存在できる程度に、ヴァナディールには自由意志による選択の自由度があっていいと考えます。
では、なぜこの議論をとりあげるかと言うと、議論をより生産的にし、かつオンライン空間における他者性の議論の一つとして、考察事例を後世に残しておきたいからです。
「こみゅにけーしゅんを かんがえる チャチャルン」
■「誰のためにジョブの選択肢の幅を広げるのか?」
①目的合理性とシステム合理性の導入
まず議論を整理するに当たり、二つの概念を導入します。
ア)目的合理性
目的合理性とは、「◯◯をするためには、どのようなことをする必要があるのか?」という目的を合理的に説明する分析概念と定義しましょう。
イ)システム合理性
システム合理性とは、「社会なり自然環境の構造が、なんらかの機能を果たすために私達に要請する合理性」と定義してみます。
具体例で喩えると
「人間はお昼に食事をするか?しないか?」というのは、生物学的な個体を維持するというシステムからの要請にあたるので、システム合理性の問題だと言えます。
一方で
「お昼ごはんを食べるためにどこの外食に行くか、自炊するか?」を決めようとする選択は、食べるという目的を達成するためにどのような手段をとるのかという選択になるので、目的合理性の問題に分類されます。
今回のメインテーマである
「誰のためにジョブの選択肢を増やすのか?」という議論で考えますと
私達プレイヤーは、民主的な社会に生きており、人生において何をどう選択するかという自由は、機能的分化社会からの要請で与えられております。
ですから
どのジョブを持ちジョブとして選択するかという決定権は、そのプレイヤー自身に帰属します。
言い換えれば、どのジョブで遊ぶかは、システム合理性として保障されることが望ましいと考えることができます。
それとは別に
私達プレイヤーは、時間的にも、参加人数的にも、攻略可能性を高めるためにも、あるコンテンツをクリアするために、ジョブを制限しなければならないという制約を受ける場合があります。これはクリアやアイテムの取得、トークンポイント稼ぎといった目的のために行われる行動であり、これを目的合理性として解釈することができます。
そうなんです。
ツィートでのやり取りを拝見しておりますと、この本来別々の水準にある合理的な行動や選択を同一地平線で議論しているからこそ
「永遠に分かり合えない」のではないでしょうか?
②私達はこの議論から何を学べるのか。
蛹は、この2つの異なる合理性を同時に扱うことには生産性をあまり感じません。
では、このテーマを一体どのように扱えば、より生産的で後世のメタバース社会の人達に対する「オンラインコミュニケーション問題の先行事例」となるか。これを考えてみたいと思います。
ア)自分のやりたいジョブしかやらない立場を理解する。
自分のやりたいジョブしかやりたくないというのは、もしかしたら「心のメインジョブ」をお持ちのプレイヤー様なら一度は抱いたお気持ちではないでしょうか?
そのように捉えられるなら、アの立場の人の気持ちに寄り添うことができるかもしれません。
ですが、上述したように、コンテンツをクリアするためには、最善をつくさなければいけない場合があるのも、現在のヴァナディールです。
最善をつくさないといけないぐらい他の参加者達も自分を律し努力しがまんしているからこそ、アの立場の人が「わがまま」と見えてしまうのかもしれません。
ですから
アの立場を肯定する方は
「自分の遊び方は、場合によっては他者に受け入れてもらえない可能性がある」ということを受け入れる必要がでてきます。
これこそが、「選択の自由に伴う責任」なんです。
この責任を引き受け、他者からどういう扱いをされたとしても、その扱いは他者に決定権があるものであって、自分がコントロールする範疇ではないことを理解する必要があります。
自分の楽しみ方を優先させるあまり、他者の決定権を無視してしまえば、当然相手との関係性は悪くなるでしょう。
まとめると
自分の選択に一貫性を持ったコミュニケーションをし、他者からみても正当性があると受け止められる行動と態度をとることができるなら、他者とのトラブルを避けることができ、居心地の良い環境の中で遊べるかもしれません。
イ)他者からの要望を受けて持ちジョブを増やしたい立場を理解する。
イの立場は、ある目的のためにジョブ選択の幅を広げないといけない場面に遭遇し、自らの意志または他者からの勧めで、ジョブ選択の幅を増やしてきた方達が該当するでしょう。
蛹は、自分自身からなのか、他者からの勧めなのかで、イの立場を二つに分けた方がいいと考えましたが、議論が複雑化するため、議論の精密さより、わかりやすさを今回は重視したいので更に分類することを避けさせていただきます。
イの立場は、オンラインでの他者を強く意識し、たとえゲームという遊びにしかすぎないものであっても、自分だけでなく一緒に遊ぶ方にも後悔させないために最善を尽くすことに価値を置くプレイヤー様が肯定するのではないかと考えます。
この態度から、私達は
「趣味や遊びだからこそ、情熱を注ぎたい」
他者とより良い関係を築くためには、これを理解する必要がありそうです。
一方で
イの立場の人達が陥る罠があります。
それは、前述した
「この民主的な社会において他者は他者自身の意志で自己決定をする権利と自由を持っている」というシステム合理性の問題です。
これを見落としがちであるように見受けられました。
イの立場の方達は目的合理性の中での他者性は理解できるからこそ、たとえ他者からジョブを勧められても断らず引き受けています。
しかし、システム合理性における他者性への理解を忘れさっているか
または
「自分もがまんしているから他者も同様にがまんすべきである」というコミュニケーションの相互主義にとらわれていて
これが他者への価値観の押し付けになっていることに気づいていないか?
この点に気づき乗り越えようとしなければ、アの立場の人とは一生分かり合えないままでしょう。
③まとめ
どちらの立場にも「いい分」があり「理」があり、同時に「落とし穴」があることも確認できました。
私達が今必要なことは、異なる価値観を持っている立場の他者を「理解できないから突き放す」のではなく
「異なる価値観の他者を全て受け入れることはできなくても、理解しようと互いに歩みよろうとすること」
ではないでしょうか。
これは、オンライン空間だけではなく、現実生活でも好ましい他者に対する態度のように見えます。
今回の議論を「永遠の平行線」とせず、互いに理解し合おうとする努力のあり方へと展開することで
「誰のためにジョブの選択肢を増やすのか?」という極めて個人の自己決定に頼る「属人的」で「正解」のない問題を未来への投資として、より生産性のある議論へと移行できるのではないかと考えてみました。
こうした議論こそが、オフラインゲームにはない、「オンラインゲームの他者性」がもたらすコミュニケーション文化そのものであり、FFXIから学べる「他者性を前提にしたコミュニケーション」に望まれる態度ではないでしょうか。
このように
「差異を認めつつ、互いに歩み寄る姿勢」
こそ、本当の「社会の多様性」の実現につながるのてはないかと愚考いたします。
追記)
誤字・脱字訂正。(2022年5月27日、2024年1月15日)
推敲。(2022年5月28日)
絵を挿入。(2022年5月29日)