全く模倣が無いとは言わない。
しかし、自分だけの言葉を紡いでいた。
そんな時代があった。
それらは時にアレンジされ或いは不変で使っていた。そして今、言霊の欠片が頭をよぎるだけになってしまった。
感心した挨拶も多々ある。
挨拶は短く幸せは長くといった挨拶はいかにも
慣れた人の考えた挨拶だなぁと思った。
私のモットーは早寝早起き読書に貯金と言って笑っていた人もいた。そうあればいいのにとひしひしと伝わるところが人徳?だったのだ。
詩歌に限らず自分だけの言葉を欲しいと思う人は多いと思う。
それが言霊にまで昇華すればと念ずる人も。私は良い夢から見放されたかの様に言霊と確信していたものから見放された。
新たに創ることはもう無理な気がしている。思い出すことばかりに腐心している。どちらも私には過ぎたことなのだろう。
迸る(ほとばしる)・漲る(みなぎる)・溢れる(あふれる)。そういう高揚感などとんとご無沙汰である。
それでも私はアジテーターでありたい。正或いは生・誠なんでもいい。前に進める言葉を発信していきたい。今の生活からは望むべくもないのであろうか?本当にそうなのか?
自問自答の中から何とか捻りだしたいという気持ちだけは強い。