似て非なる言葉だ。

私はおざなりは嫌いである。

習い事でも趣味でも決心までに時間を使う。

そして、一定レベルまでは努力を惜しまない。一定レベル(例;将棋なら三段格・ピアノはソナチネ終了・書道三段・ゴルフは90前後)に達すると再度考える。もっと高みを見る努力をする覚悟はあるのか。それほどに愛せるのかと。

道具にもこだわった。ゴルフや将棋・楽器など合算すると数百万にはなる(ゴルフ会員権を除く)。

ゴルフは練習場に行く前に片手シングルの人からゴムマットを貰ってチョークの線を素振りで消す練習。この地味な練習を朝昼夕と30分ずつ半年続けてやっとゴルフ練習場に連れていって貰えた。

今までこの練習を半年間黙って続けた者は誰もいなく途中で練習場を懇願されていたらしい。ちなみにコースデビューのスコアは106であった。パターが下手だったのだ。以来、午前・午後で36ホールまわったり休日は1000球程度打ちっぱなしの練習場にいったりしていた。

でも、ある日を境に適当になった。専従役員になった時である。

李下(りか)に冠(かんむり)をたださずである。30を過ぎてはじめたゴルフである。だからこそ必死だった(ちょうど異動で組合役員から外れた年だった)。

こんな性格だから趣味が被るということは無かった。例外でコツコツと続けていたのは将棋くらいである。それでも随分と腕は落ちた。どのような習い事や趣味も実力を維持するには、やはり努力は必要である。

なおざりといえば見合いだろう。結婚への憧れがあったのは20代まででその後は恋に恋することも無くなったが、自分の「好きな相手に思いを伝えることができない」性質はなおらないと思った。一生独身でいようと思っていたのだ。人がボチボチ身を固めないかと彼女がいないならばと縁談を持ちかける年頃をわたしはなおざりに暮らした。

どうして何事も竹を割ったようにしか生きていけないのだろう。性格はうじうじしているのだが人前で見栄をはってしまうのか。

虎の皮をかぶった羊のような半生だった。