小説「TOUBEE-3」第二章
第一話 「山窩の姉弟」①
山に囲まれた、小さな湖だった。
一人の男が釣糸を垂れている。
天気は良く、風も穏やかな午後だ。
ただ、釣っている男の身なりがむさ苦しく、伸ばしっぱなしの髪もボサボサな上に、裾のボロボロになったシャツと半ズボンは、一見して彼が宿無しの浮浪者であろうことを伺わせた。
水辺に腰掛けた膝元には、何処かで拾って来たような空き缶があり、その中には、これまた何処ぞでほじくりかえした虫が、折からの陽射しで草臥れていた。
その一匹を針に付け、小枝で出来た浮きと共に水へ放り込む。
この男の持ち物すべてが、みな何処かで拾って来たような寄せ集めだった
。
にもかかわらず、男の竿には意外とよく魚が掛かる。
確かに大物ではないのだが、もう既に四、五匹は釣れているようだ。
しかし、この量を一人で食うのかと思えば、やはりそうではなく、幼い少年が男に近付き、話し掛けた。
「まだぁ?」
「あぁ、もう少しだ。」
「う~ん。」
そう言葉を交わすと、少年も水辺に座り込み、男が釣り終わるのを待つ様子だ。
「みんながボロっていじめる…。」
少年の歳格好を見れば、七~八才というところか…。やはり男と同じようなボロボロの身なりだ。
「外側だけで、本当の姿を見ることのできない奴は、相手にするな。」
「でもぉ…、本当の姿って何だか分かんないよぉ。」
「心配要らん。」
とは言うものの、あまり説得力はないようで、少年は黙ったまま尚もうつ向いている。
「任せておけ。」
ここで会話は終わってしまった。
男が釣りの道具を片付け始めたので、少年も手伝いだした。
そうして二人が山間に歩いて行くと、小川の畔に天幕を張った仮住居があった。
呼び声をあげながら男が伺うと、中には十二、三才とおぼしき少女が居た。少年の姉であろう。
様子からして、この三人は親子の様にも見えるのだが、男の接し方が些か父親らしくない。親の風格とか威厳などというものとは、まったく無縁のようだった。
少女は籠を持って天幕から出てくると、男から魚の入った魚籠を受け取り、川辺に起こした焚き火のところまで行き、掛けてある鍋に、元々そこにあった、別の籠の中身を一掴み入れた。
それは山菜のようにも見えるが、雑草のようにも見える。どうやら魚と一緒に調理するつもりらしい。
中身の減ったその籠を見れば、編み目が荒く、不均等で、一目でそれが素人の手による物だということがわかる。
少女はその同じ籠から、すっかり砥ぎ細った小さな包丁を取り出すと、横のまな板で器用に魚をさばき始めた。
誰に習ったのか、歳の割りには手際が良い。
鍋が再び煮たつと、少女は器を浸して灰汁を取り、さばいた魚をまな板から滑り込ませた。
小川の水は清らかで、サラサラと速い流れは心を落ち着かせる。
その傍らで、焚き火の炎と鍋の煮たつ湯気。
現代の『自然の中』に『生きる』ということが、この年端も行かない少女の手によって作り出された。
だが、この幼い姉弟は、学校へ行くそぶりが無い。
父親らしき男も、これと言って急かす様子も無いところから、放任しているようだった。
少女は、サバキ切るには小さすぎる魚を串に刺し、焚き火の周りに突き立てる。
鍋のフタを開けてかき混ぜると、底の方から野菜と雑穀が浮かんで見えた。
それを少し掬って味見をしてから、少女は天幕の中の二人に声を掛けた。
出てきた二人が火加減を見ている間に、少女は調理の後片付けを済ませる。
そうして三人は河原で食卓に就いたのだが、その真っ最中の事だった。
「客が来た。」
と男は言うが、食事の手を止めることはなかった。
そして暫く後、食卓が片付くころに、遠くの岩陰から人が現れた。
どうやら、三人の食事が済むまで待っていたようだ。
父親のような男は、姉弟二人に天幕の中へ入るように言い、独りで表の訪問者を迎えた。
「こんにちは、どちら様ですかな?」
訪問者は男女二人。
「こんにちは。私たちは県教育委員会の者ですが、お宅のお子さんたちの事で幾つかお伺いしたい事がございまして。」
と言って名刺を差し出す。
「ほう、お役人が、今頃また何の御用ですかな?」
「ご存知でしょうが、こちらのお子さんたちは、本来ならば義務教育課程の年齢だと思うのですが、どうも見たところ、就学はしていらっしゃらないようですね。」
「その話でしたら、何度もお話したと思いますが、あの二人には戸籍がありません。出生地も無ければ生年月日も無い。法的に存在していない人間を、どうやって自治体の運営する学校へ入れろと言うのですか?」
「いえいえ、そうではなくて、その戸籍が無いという事が問題なのですよ。」
「ふむ、それも今まであちこちの役所で相談して来ましたが、いずれも断られましたし、実は私自身もあの二人と同様、戸籍が無いために、窓口で申請書を書く段階で躓いてしまう。申請者の住所氏名という欄でねぇ。」
「ですから、こちらの方としても困っているのですよ。戸籍が無いというのは法律に触れるのです。海外の発展途上国などでは、戸籍の無い人間が成人して犯罪者集団に成るといということが問題視されています。警察が出てくる前に何とか保護しませんと・・・。」
ここで男は顔をしかめた。
「保護ぉ? 戸籍が無いのは、子供たち本人の責任では無いし、もちろん私の責任でも無い。自分の子供に出生届を出さなかった親の責任だろう? 警察など知った事か?」
「ところが、そういう訳にもいかないんですよ。夕べ里の公園で行われていた町内会の花火大会で、お宅の少年が地元の子供といさかいになったようで、相手に花火をぶつけて怪我そ負わせたそうなんです。相手の親は警察に被害届を出すと言っているんですよ。」
それを聞いた男は、少し驚いた様子を見せた。
「そんな事があったんですか? では本人に聞いてきますので、少しお待ちになって下さい。」
そう言って、男は天幕の中に入っていった。
その背中を見送りながら、外の二人はしたり顔をしている。
中に入った男は少年に問う。
「昨日、花火大会でケンカをしたのか?」
「うん…、みんながボロって言って、花火を投げつけて来たから。」
「その花火を投げ返したのか?」
「ううん。花火は除けて、突き飛ばしただけだよぅ。」
「そのとき、相手は花火を持っていたかい?」
「ううん。持ってなかった。投げちゃったから。」
「間違いないか?」
「うん。」
「そうか、解った。」
そう言うと、男は満面の笑みを浮かべた。
そして、旁らのメモ用紙に何か書き始めながら、子供たち二人に荷物をまとめるように指示した。
「お前たちはここから逃げろ。奴らの狙いはお前たちだ。」
男は少女にメモを渡して言う。
「弟を連れて、この人を探して訪ねろ。きっと助けてくれる。」
そして二人の準備が整うと、子供たちと同じ目線までしゃがんでから、
「いいか?私と一緒に出て、合図をしたらいったん川上の方に向かって走れ。尾根を超えたら回り道して山を下りろ。しっかりやれよ。」
「イムさんは?」
と訪ねる少女に、男が応える。
「俺は囮になって、反対側の谷を登る。」
「また会えるよね?」
「あぁ、必ずな。」
そう言って、三人は天幕を出た。
すると、中の声が聞こえていたのか、外の二人は二手に分かれて、男は里へ降りる側の道を塞ぎ、女は河原の岸辺で身構えていた。
「走れっ!」
イムの声に駆け出す姉弟。
と同時に女は腰を低くして飛びつく体勢。
だが、女が二人を捕らえようと走り出した瞬間、二人は左右交互に機敏な動きを見せ、女を撹乱したと思うや否や、別々の方向へ動いて交わし、獣のような速さで岩から岩へと跳び移る。
出し抜かれた女は、まるで鬼のような形相で二人の後を追い、これまた鬼神の如く岩の上をジャンプする。
一方イムは、いったん立ち塞がる男を強行突破すると見せ掛けて踵を返し、反対側の谷を駆け上がって行く。
この最初のフェイントが心理的な効果を与えたか、男はイムの後を追いかけ始めた。
いったい何処にそんな体力があるのかと思うほど、イムは一気に谷を駆け上がったが、続いて追っ手の男もすぐ後ろに迫っていた。
山の上では、森の木が景色を遮っている。
鬱蒼とした森の途中で、イムは立ち止まった。
それに合わせるように、男も歩みを止める。
「こんな所まで連れてきて、何のつもりだ?」
「ここまで連れて来るのが目的さ。」
「なんだと?」
「偽役人さんよ、あんた達こそ何のつもりなんだ?」
「いつ分かった?」
「ふっ…、女連れでスーツ姿。里からの山道には休む所も無い。普通なら大汗かくのに、二人とも服の汚れ一つ無い。教育委員会の職員にしちゃあ出来すぎだ。」
「ほぅ、見かけに依らず、なかなか知恵が回るようだが、それもココまでだ。」
「なぁにがココまでだ?」
「戸籍が無いんじゃ、居ないも同然。存在しない人間が人里離れた山奥で死んでも、誰にも分からないよなぁ。」
「ほおぅ、それなら聞くが、その人里離れた山奥で、名前も戸籍も無い人間が偽役人を殺したら、犯人特定にはどれぐらいの時間が掛かるのかな?」
「きっさまあ!」
いきり立った男は背広の袖口から20センチほどの長さの針束を取り出したかと思うと、イムに向かって立て続けに投げつけた。
それをすんでの所でかわすイム。
針は鋼鉄製のようで、重みのある音を立てて木立に突き刺さる。
「ふん。いつまで避けきれるかな?」
と挑発する男に、イムは応える。
「これしきの事で、我が一族を征することが出来るとでも思ったか?」
言い終わるや否や、イムは韻を結んだ。
すると、尾根伝いに一陣の風が起こり、その風は草を薙ぎ倒しながら林の中の斜面を滑るように流れて来る。
突然、草を薙ぎ倒した同じ高さ(地上高約30センチ)の所で男の脚が切断され、バランスを崩して倒れ込む男の身体を、地面に近づいた部分から順に、断続的に切り刻んで行く。
男は悲鳴をあげる暇も無く、バラバラになってしまった。
そして同時に噴き出した血液は、風下に向かって霧となって拡がっていった。
それを見届けたイムは、来た道を戻り、元居た天幕のある河原から川上に差し掛かる。
するとそこへ、何かが流れ下って浅瀬に引っかかり、止まった。
子供達を追って行った女だ。
イムが近づいて見やるが、軽い擦り剥き傷の他には、これといった外傷はない。
溺れ死んだようだ。
イムはその日、夜遅くまで掛かって河原の流木を集めてやぐらを組み、追っ手二人の死体を焼き、その灰と骨を川に流して弔った。
その日から、その河原でイムたち三人を見た者はいない。