ベルギー観光も終え、日本で立てた当初の旅程を終えたので、本来ならパリで数日過ごして帰国する筈だった。しかし、北欧旅行で受けた刺激が僕を突き動かせた。よーし、残金を精一杯割愛して行けるだけ行こう!パスポートへの追加国記入のことはあったが、ええい、何とかなるだろう精神で前へ進むことにした。
パリの行きつけのホテル、プログレに戻ったのが、7/1日頃だった。大韓航空パリ支店に電話をかけ、帰国の便の予約をした。1978年7月18日パリ、オルリー発東京成田行。ということは、17日間でスペイン・イタリア・できればギリシャを訪問したい、ということになる。トーマスクック時刻表で調べると、マドリッド行きはオーステリッツ駅から夜行列車、「プエルタ・デル・ソル」号(調べてみると今はもうこの列車はないらしいが、調べてる過程でこんな物 を発見した・・・・知ってる人には懐かしいこのドラマ・・)が18時に出るらしい。
よーし、明日これに乗ろう!未知の国へのワクワク感がたまらない!まして情熱の国とならなおさらだ。どんな国なのだろうか、エスパーニャってところは?
翌朝ホテルの主人にスペイン・イタリアを回ってくる、そしてまた戻ってくる旨を伝えてると、ボン・ボヤージュと言ってくれた。夕方オーステリッツ駅に着き、駅の窓口で、一等のユーレイルパスがまだ有効だったが、一等の寝台車は値段が高くもあり、(又満席だったと記憶している)2等の寝台車に乗車することにし、追加料金を払って切符をもらった。
列車がホームに入ってきたので、自分のコンパートメント目指して乗車した。バックパッカー(当時、この言葉はなかったが)の若者たちでいっぱいで、独特の興奮が車内を満たしていた。色めき立つっていうのはこういうことを指すのだろう。やっと自分のコンパートメントに辿り着いた。
結局、僕、上品な中年のフランス女性、スペイン人のかなり年輩の母とその娘、あと二人は忘れたが、合計6人が同室だ。
通常の座席が就寝時は3段ベッドになる。この作業は鉄道の職員が時間が来るとしてくれる。
静かに列車が動き出した。夏だから、まだ明るい。僕は進んでみんなに挨拶した。フランス女性は冷ややかに読書、それに対して、スペイン女性はにこやかに反応してくれた。もっとも、その時は彼女はフランス語を使っていたので、僕は彼女をフランス人だと思っていたのだが。
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