俳優や歌手として大成する前に、意外な経歴を辿ってきたという苦労人は多い。
“いぶし銀”の活躍を見せるあの有名人や、あの演歌の大御所など、様々な業界で活躍している“元お笑い界”の面々を紹介していこう!
●でんでん(65)
映画『冷たい熱帯魚』で、第35回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞するなど、数々の映画・助演男優賞を受賞するなど、数々の映画・ドラマに名脇役として出演する俳優・でんでん。
もともとは丸井でサラリーマンをしていたが、30歳のときに素人として『お笑いスター誕生!!』へ出演し、8週を勝ち抜き、金賞獲得を機に芸能界デビューした。
「ようみんなぁー、ハッピーかい?」「美しいだろぉー?」といった決め台詞とともに大人気に。
1981年に俳優に転身し、その後の活躍は言うまでもないほど。
いまや悪人役を演じさせたら右に出るものはいないと評価されるでんでんだが、若者は知らない意外な過去があったのだ。
●泉ピン子(68)
嫁姑争いを演じさせたらピカイチの、我らがピン子。
高校を中退後の1966年、ウクレレ漫談の創始者・牧伸二のもとに弟子入りし、『三門マリ子』の芸名で歌謡漫談家デビュー。
だが当時は、キャバレー回りが続く日々で芽が出るまで相当苦労したもよう。
1975年に、バラエティ番組のリポーターを担当したのを機に現在の『泉ピン子』と改名。
その下ネタ満載の話術で瞬く間に人気者に。
なお、芸名の“泉”とは、「過去に泉という名前で売れた芸能人がいないから、お前で試してみる」と、師匠の牧によってつけられたと語っている。
●石倉三郎(69)
芸能界最強の喧嘩師ともウワサされる俳優・石倉三郎。
最初は東映の大部屋俳優として任侠映画などで端役出演を重ねていた。
1976年に『コントチャップリン』を結成、その後1979年にレオナルド熊と『ラッキーパンチ』を結成も、コンビ仲が悪化しすぐに解散。
1981年に再度レオナルド熊と『コント・レオナルド』を結成、鋭い社会風刺でお笑いブームを牽引する存在だったとか。
なお、やっぱりコンビ仲は最悪で、人気絶頂の1985年にコンビを解消してしまったとか。
●竹中直人(59)
多摩美術大学のグラフィックデザイン学科を卒業している竹中直人。
その縁もあり、いまは同学科の客員教授を務めているとか。
竹中のキャラクターは、大学在学時から奇抜だったようで、当時は8ミリ映画の製作に没頭し、ブルース・リーをモチーフにした『燃えよタマゴン』などを作っていたもよう。
大学在学中の1977年に『ぎんざNOW!』の「素人コメディアン道場」に出演し、第18代チャンピオンに輝き芸能界入り。
その後『TVジョッキー』でもモノマネ芸でチャンピオンになるなど、コメディアンとして大活躍。
日本を代表する俳優となったいまでも、自分の職業欄に『俳優』と書くのが恥ずかしいのだとか。
●北島三郎(79)
ご存知演歌界の大御所・北島三郎。
実は1961年に、ギター漫才『ゲルピンちん太ぽん太』の“ぽん太”として漫才コンビを組みデビューしていた。
これは歌の師匠であった作曲家・船村徹が、なかなか歌手デビューできない北島にステージ度胸をつけさせるために、自ら台本を書き、もうひとりの弟子とコンビを組ませて、知り合いに頼みこんで手にした仕事だったとか。
意気揚々と芸人として東北巡業に出たサブちゃんだったが、「使いものにならん」と、3日ほどでクビになってしまったという。
(日刊大衆発)
北島三郎は「ゲルピンちん太ぽん太」のちん太なのか、ぽん太なのか?
凄く気になるぞ!…(;´Д`)…
ブー(^0_0^)
(^0^)/(^0^)/
おそらく、ちん太!