今や、その活躍ぶりは説明不要と言える。
そもそもだが、もうAKB48という肩書は背負っていない。
背負っているのはHKT48という肩書のみ。
それでも、AKB48のシングルの「選抜」常連であり、
HKT48では劇場支配人なる肩書も持つ。
個人としての活動も実に幅広く、
ドラマで主演もしていれば、バラエティでの冠番組も持つ。
ワイドショー番組のコメンテーターもすれば、
あらゆる業種のCMにも起用されている。
ついには、個人名義で単行本まで出してしまった。
それらのすべてが「アイドル」らしい活動なのかといえば、
決してそういうわけではない。
しかし今や、「アイドル」という概念はすでに超越し、
1人の「スター」として成立してしまっているともいえる。
そんな活躍の引き金になったといえるのは、
おそらく、あの衝撃的な出来事だったのであろう。
今でも批判が止まない大事ではあるのだが、
あの一件こそが、すべての流れをガラッと変え、
1人の怪物を生み出したと言っても差支えないはずだ。
「指原」という珍しい名字は、大分・豊後が起源と言われている。
この名字でこの世に生まれてきた時点で、
すでに指原莉乃は大分を背負う存在として、
その使命を託されていたのかもしれないし、
それまで芸能界にいなかった名字で生まれてきたことは、
ある意味で「持っている」ということなのかもしれない。
小学生から中学生にかけては「ハロプロ」に熱中していた。
いわば、生粋の「アイドルヲタク」である。
学校では決して目立つ存在ではなかったものの、
「ハロヲタ」としては九州で名が知られる存在となり、
その当時、同じくかなりの「ハロヲタ」であった柏木由紀とは、
ともにAKB48となる前から交流があったのだという。
当時から自分が可愛いとは思っていなかったものの、
モーニング娘。のメンバーがテレビでイジられているのを見て、
「アイドルはキャラも大事だ」ということを悟り、
いつしか「アイドル」への道を志すようになる。
すでにこの頃から、イジられることは意識していたようだ。
柏木由紀のAKB48加入から遅れること約1年、
指原もAKB48メンバーとなり、大分から上京する。
東京での家が決まるまでの間は、
北原里英や大家志津香といった他の「地方組」とともに、
一つ屋根の下での共同生活を行っていた。
加入当初は、同期の中ではそれなりに扱いもよく、
正規メンバーへの昇格も、シングルの「選抜」入りも、
割と早い段階で経験することとなる。
しかし、今ほどの存在感はそこにはなく、
あくまでも「選抜」の1人という感じに過ぎなかった。
初めて経験した選抜総選挙では、
同期の北原が13位、宮崎美穂が18位で「選抜」入りする中、
27位と「選抜」入りという結果を残せず、
その後、しばらく「選抜」から遠ざかることになる。
それでも、何かに事つけて、指原には目立つ機会があった。
番組の企画でただ1人バンジージャンプが飛べず、
いつしか「ヘタレ」という称号が与えられたかと思えば、
苦手だった水泳に挑戦したときは、
泳げはしたものの、なぜか挑戦する前から号泣し、
泣き虫というキャラまで足されることになった。
たとえ表立った活動はできずとも、
常に何かを呼び続ける、その指原のスター性は、
ついに、あらゆる大人たちを動かしていくことになる。
まず、その手始めとして、2010年3月に、
前田敦子や大島優子も所属していた、
大手芸能事務所・太田プロへと移籍する。
それは、指原の強力な後ろ盾として十分すぎるほどであった。
その翌月には、公式ブログをスタートさせ、
その文才で、世間からの注目も集め始める。
そして、第2回選抜総選挙で19位まで順位を上げ、
当時の「選抜」圏内へと飛び込んだことで、
いよいよ指原は、運営の推されコースに乗ることとなった。
さらに増えていく仕事、それにともない増していく注目度。
第3回選抜総選挙でも9位まで順位を上げ、
目に見える形での結果も示した。
2012年4月には、地元・大分市の観光大使にも任命される。
同年に行われた第4回選抜総選挙では4位にまで上り詰めた。
そのシンデレラストーリーは、まだまだ続くものと思われた。
そんな矢先に起こったのが、あの一大事件であった。
それまでも、自身の過去について、
何かと取り上げられていた「週刊文春」から、
とどめを刺すかのような記事が出てきた。
そういった記事に対しては、何かと沈黙を貫いてきた運営も、
さすがに見逃せない事態へと発展した。
それでも、運営はどうにか落としどころを模索し、
出した結論が、AKB48からの追放、
そして、HKT48への完全移籍であった。
当時のHKT48は発足してまだ間もない頃であり、
1期生が徐々にその地盤を作り上げていた最中であった。
そんなHKT48に突如として送り込まれたことに対し、
当初は否の方が強い賛否両論が繰り広げられていた。
当時のHKT48のファンたちも、指原が来ることに対して、
そこまで歓迎のムードがあったわけではなかった。
それまでの押せ押せムードから一転し、
突如として、腫物のような扱いへと変わっていった指原に、
シンデレラストーリーの終焉を予感した者も少なくなかった。
しかし、結果として、この出来事こそが、
指原自身のさらなるステップアップ、
そして、HKT48の急成長へとつながっていく、
壮大な「逆転力」ストーリーのスタートになったのであった。
まず、自らの注目度を最大限に利用する形で、
HKT48やそのメンバーに注目を集められるように努めていった。
48グループとしての活動の何たるかをわかっていなかった、
当時のHKT48メンバーたちに、しっかりとイロハを叩き込んだ。
そして何より、自らの失態をイジられることを拒まず、
自ずと矢面に立つ活動を続けていったのである。
当然、それに対する批判が止むこともなかったものの、
それでも、前に進むことを指原は選んだわけであり、
運営もまた、それに対して最大限のバックアップを続けた。
いつの日か、すべてがプラスに変わることを信じて。
HKT48移籍後、初めて迎えた選抜総選挙。
世間の大半が想定していなかった1位の座に、
指原は、選抜総選挙史上初となるAKB48の5期生として、
そして、HKT48所属メンバーとして就いた。
HKT48自体も、前回の1人から一気に議席数を伸ばし、
自身も含めた6人のメンバーがランクインを果たした。
それはまさに、指原莉乃が「アイドル」の概念をも超越し、
さらなる存在へと昇華した瞬間でもあった。
AKB48の「センター」として初めて与えられた曲、
「恋するフォーチュンクッキー」のMV撮影の地として、
指原に用意されたのは、自身の再起の原点・福岡。
自らを迎え入れ、支えてくれた地への最大の恩返しだった。
前回の第6回選抜総選挙では、
史上初の2連覇への期待も根強かったものの、
なおも残るアンチ層の後押しもあったのか、
渡辺麻友に1位の座はさらわれる形となった。
それでも、HKT48の中からは、前回の倍以上となる、
13人(「兼任」除く)ものメンバーがランクインを果たしている。
HKT48を、他のグループにも決して負けない、
戦える集団へと押し上げたその功績は、
決して色褪せることなどないはずである。
「恋するフォーチュンクッキー」のMV撮影から約2年。
第7回選抜総選挙の開票イベントが、
初めてヤフオク!ドームの地で行われる。
指原としてみれば、まさに凱旋と言ってもいい。
惜しむらくは、前回1位として凱旋できなかったことであるが、
それでも、速報発表では3年連続1位となり、
最も1位に近い立場として、運命の地へと乗り込むことになる。
様々な人たちの支えと応援により、
3年前のあの悪夢を見事に乗り越えて見せ、
今や、唯一無二のブランド力まで構築して見せた指原莉乃。
年齢のことを言えば、そろそろ卒業もありそうなものだが、
それでも、今の指原にはそんな思いは微塵もないはずだ。
何しろ、HKT48劇場支配人の立場として、
まだまだ出来ていないことは山ほどあるはずなのであり、
引き続き、自分が引っ張っていかなければという思いこそが、
今の指原をきっと支配しているはずなのであるから。
たとえ自分自身の順位が何位に終わろうと、
指原はきっと、何かしらのインパクトを残してくれることだろう。
そして、HKT48のさらなる可能性も、きっと示してくれるはずだ。
日々磨きがかかる「指原クオリティ」は、
ヤフオク!ドームの地で、再び覚醒の時を迎える。