諸法無我 | あなたは「幸せ」ですか それとも「不幸せ」ですか...  ニコラスの呟き...

あなたは「幸せ」ですか それとも「不幸せ」ですか...  ニコラスの呟き...

いつの間にか前期高齢者になっていました。65年以上生きてみると 色んな事を経験しました。「達成」「失望」「離別」「病気」...
それぞれの経験に意味があると最近思います。お会いすることのない、どなた様かのお役にたてば幸いです。      

三法印(1)の話が 諸行無常 諸法無我 涅槃寂静 の 諸行無常 で終わっていた

今日は「諸法無我」の話を呟きます・・・


諸法無我(しょほうむが)は釈迦の悟りの一つで、すべての存在には、主体とも呼べる「我」がないことをいいます


諸法無我の「法」とは「存在」という意味であり、「無我」とは「永遠に続くものはない」という意味ですしたがって、諸法無我とは「一切の存在は永続的なものではなく、仮のものである」ということです


諸行無常で述べたように、全てのものは時々刻々変化しています(ここから一期一会の考えが生まれた)

ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、何者かが変化したり、しなかったりすると考えようとします

その変化の主体を想定してそれを我(が)といいます


我とは「常一主宰」(常とは常住、一とは単独、主宰とは支配すること)のものといわれ、つまり常に我々の心の中に存在し、まるで単独者のように「こころを支配」するものを指します


御釈迦さんの生きていた時代のインドの考え方は、変化するものに主体としての変化しないものを想定した「有我論」(うがろん)でした。ところが、御釈迦さんは、存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化する何者かという主体をとらえることは間違いであると指摘されました・・・


そのような妄想された「我」に執着する「固定観念」を破るために「諸法無我」を説かれました


これは一般に有我論が説かれている最中にお釈迦さんだけが主張した仏教の特色でもあります


諸法無我は、インド在来の実体的な「我」の存在をも否定し、「我」を含むあらゆる存在は「実体」ではありえないことを主張しました・・・


我々人間は、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに「私」と呼ぶ「我」を想定します・・・

そして成長変化してきた「私そのもの」をつかまえて、「私は私」であると考えます

しかし、諸法無我はそれこそ「我執」であるとして退け、変化をその変化のままに、「変化そのものこそ私」なのだと説かれました


この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、つねに森羅万象の中に「関係そのもの」として生かされてあるという、「縁起の事実」を生きぬくことを教えるものです・・・


一切のものには我としてとらえられるものはないという考え方を徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされて「現実を生きる」ことを教えているです


そして「生かされて」「生きている」という自覚の中にこそ、他者に対する「慈悲」の働きがありうるとお釈迦さんは説かれているのです・・・


仏教哲学を学ぶ上で、仏教用語はとても難解ですよね・・・


そして言語表現には限界がある(お釈迦さん自身がそうおっしゃっています)


お釈迦さんは弟子たちに「説法を書きとめる」のを禁じたと言われています


現在我々が目にすることの出来る様々な「経典」は弟子から弟子へと伝えられたものです


人から人への伝聞は、個人の理解力の差により、限界があります


それ故、様々な宗派が生まれ、解釈が生じました・・・その人のレベルでしか理解できないのですから

(お釈迦様はずーっと前にリテラシーについて語られていたのだ!!)


Nicoの提唱する「愛のフィルター」を通して仏教に接してみると「あなた」にとって「仏教哲学」との新しい出会いが生まれるかもしれませんよ・・・


駄文失礼いたしました・・・  合掌


Nicoでした


(1)三法印とは・・・
http://ameblo.jp/nicolas2012/entry-11217227740.html