はいからはくち | あなたは「幸せ」ですか それとも「不幸せ」ですか...  ニコラスの呟き...

あなたは「幸せ」ですか それとも「不幸せ」ですか...  ニコラスの呟き...

いつの間にか前期高齢者になっていました。65年以上生きてみると 色んな事を経験しました。「達成」「失望」「離別」「病気」...
それぞれの経験に意味があると最近思います。お会いすることのない、どなた様かのお役にたてば幸いです。      

「岡林信康」のバックバンドを「はっぴいえんど」が勤めていたことを知る人は少ないと思う

Nicoは「天王寺野外音楽堂」の「春一番コンサート」で彼らを観ることができた・・・

(何年前の話し???)


春一番とは・・・

http://haruichiban.sakura.ne.jp/haruichiban08/haruichitoha/haruichitowa.html



『風街ろまん』は間違いなく1970年代の名盤の一枚だろう・・・

Nicoは「復刻版CD」が発売されたら、すぐに買ってしまった。


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「はっぴいえんど」は、日本のロックバンド。

バンドの作詞担当であった松本隆が、ダブルミーニングなどの技法を積極的に歌詞に取り入れ、日本語ロックと呼ばれた独特の世界を構築。松本は後年、ジャックスの楽曲「からっぽの世界」の歌詞に影響を受けたことを公言し、この曲がなければ「はっぴいえんど」はなかったかもしれないという趣旨の発言をしている。大瀧と細野は音楽性を重視していたため、ロックに日本語の歌詞をつけるこの提案に反対したらしい。またサウンド面においてはアメリカのバッファロー・スプリングフィールドや、モビー・グレープに影響された先進的な音であった。メンバーは宮沢賢治に影響を受けており、その世界観が音楽性にも影響している。

しかし、ブリティッシュロックの人気が絶頂期を迎えつつあった当時の日本において、これらのバンドはほぼ無名であったにも拘らず、このような音楽性を標榜したのは、ブリティッシュロックはアメリカのロックをコピーして生まれたイギリスオリジナルの音楽であるため、日本のロックを作るためにはアメリカのロックをやらなければならないという考えがあったからだという。はっぴいえんどがとった方向性は後続のバンドに少なからぬ影響を与え、葡萄畑や乱魔堂、センチメンタル・シティ・ロマンスなどの後継者を生んだ。


また、でこそシングルとアルバムのバージョンを違えたり、リミックスすることは一般的になっているが、シングルカットする際にはアルバムの音源を使うのが通例だった当時において、彼らはすでにシングルとアルバムのバージョンを変えて発表していた。シングルがキングレコードから発売されたのは、当時キングレコード社員だった三浦光紀が「はっぴいえんど」に注目し、「12月の雨の日」のシングルバージョンのレコーディングスタジオにキングスタジオを提供したためである。

代表曲「風をあつめて」は、2003年にアメリカの映画『ロスト・イン・トランスレーション』、2009年に『おと・な・り』で取り上げられた。

遠藤賢司、岡林信康、加川良、高田渡、小坂忠らのバックバンドとしても、コンサートやスタジオ録音などを行っている。

小坂忠、柳田ヒロらとともに結成したバンド、エイプリル・フールを脱退した細野晴臣と松本隆、そして大瀧詠一と鈴木茂が出会い、1969年にバレンタイン・ブルーという名前でバンドが結成された。19704月にハッピーエンド、さらに平仮名表記の「はっぴいえんど」とバンド名は改名される。

活動期間中に、URCレコードからアルバム『はっぴいえんど』『風街ろまん』、ベルウッドレコードから『HAPPY END』を発表している。1972年末に解散したが、1973年の文京公会堂と、1985年の国立競技場で再結成のライブを披露している。


細野 晴臣は日本のミュージシャン。多摩美術大学美術学部芸術学科客員教授。2008年芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

1947年、東京都港区生まれ。特に裕福ではないが、厳しい環境でもなく自由な少年時代を過ごした。母方の祖父である中谷孝男はピアノ調律師、叔母が外資系の映画会社勤務という環境から、幼い頃からポピュラー音楽に親しんだ。中学時代にロックに興味を持ち、15歳あたりからギターを手に友人とバンドを組む。漫画家を志したこともあるが、立教高等学校(現・立教新座高等学校)、立教大学の同級生だった西岸良平の才能に感服し、漫画家を諦め音楽の道を進むことを決意する。高校時代からフォークの洗礼を受け、ボーカルにも挑戦し始める。この頃、ボブ・ディランに大きな影響を受けた。

立教大学在学中にベースを始め、数多くのバンドを経た1969年、エイプリル・フールのベーシストとしてメジャーデビュー。その後、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂と「はっぴいえんど」を結成し、日本語ロックの礎を築く(本人は当初、日本語ロックの礎を築くことに反対していたという)。1973年の「はっぴいえんど」解散後、ソロ活動と平行して鈴木茂、林立夫、松任谷正隆とキャラメル・ママ(のちにティン・パン・アレーと改名)を結成。演奏・プロデュースチームとして多数のアーティストの楽曲に参加、荒井由実などのプロデュースも行う。

自身のソロ・アルバムでは、ファーストの『HOSONO HOUSE』(1973年)は当時埼玉県狭山市のアメリカ村にあった自宅で録音を行い、その後の『トロピカル・ダンディー』(1975年)、『泰安洋行』(1976年)、『はらいそ』(1978年)と続く「トロピカル三部作」では南国・楽園志向にアプローチし、この三部作でのニューオーリンズや沖縄、ハワイ、中国などの音楽をごった煮にしたサウンドは海外の好事家からも注目されるようになる(この作品に加えて、プロデュース作品である西岡恭蔵の『ろっか・ばい・まい・べいびい』がある。名義上はプロデュースだが、実質は共作である)。漫画家の諸星大二郎のファンであり、彼の漫画のタイトルから曲名をつけたこともある。

シンセサイザー・コンピュータを用いた音楽やディスコへの興味が高まっていった1978年、元サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏、当時スタジオ・ミュージシャンでもあった坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラ (Y.M.O.) を結成。当初は細野主体の企画もののバンドと捉えられていたが、1980年にはその活動がブームを巻き起こす。Y.M.O.の成功をきっかけにメディアにも露出するようになり、アイドル・歌謡曲界への多数の楽曲提供、新人発掘のためのレーベル「YEN」の高橋との共同による立ち上げなど個人としても精力的に活動を行う。また、ヴィデオ・ゲーム「ゼビウス」の音源をダンス・ミュージックにアレンジした『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年)をプロデュース、ゲーム・ミュージックが音楽ジャンルとして確立するきっかけをつくった。

1983年のYMO解散後は、テイチクに移籍し、「Non Standard」と「Monado」の2つのレーベルを立ち上げる。Non Standardレーベルからはピチカート・ファイヴやWorld Standardを輩出。また、自身の代表作として映画『銀河鉄道の夜』のサウンド・トラックを手掛ける。Monadoレーベルからは実験的な作品を中心に所謂「観光音楽」と呼ばれる作品を発表。代表作として映画『パラダイスビュー』のサウンド・トラックを手掛ける。その後、1989年にエピック・ソニーに移籍し、ソロアルバム『Omni Sightseeing』を発表。また、映画『紫式部 源氏物語』のサウンド・トラックを手掛ける。その後、ソロアルバム『メディスン・コンピレーション』を発表。その後もプロデューサーや作曲家としての活動や映画音楽の提供(『メゾン・ド・ヒミコ』他)などをこなしながらも、ソロアルバム発表や多くの他アーティストとのユニット(別項参照)結成など自己の音楽活動も枚挙に暇が無い。

YMO時代からの多忙と、日本のバブル崩壊以前の消費社会に対する疲弊に辟易とした後、1980年代後期にはワールド・ミュージック、1990年代にはアンビエント・ミュージックに深くアプローチし、大量消費に頼らない音楽を模索した。


大瀧 詠一は、シンガーソングライター・作曲家・アレンジャー・音楽プロデューサー・レコードレーベルのオーナー・ラジオDJ・レコーディングエンジニア・マスタリングエンジニア・著述家、元Oo Records(現在は会社自体がない)取締役など、多くの顔を持つミュージシャン。

最近は音楽家としては実質的に引退状態で、「勉強家」などと称している。非常に多くの別名を持ち、その時々・役割で使い分けている。熱心なファンは自らを「ナイアガラー」などと称し、大瀧の才能に敬意を込めて「師匠」や「福生の仙人」などと呼んでいる。非常に多趣味であるが、特に読売ジャイアンツの大のファンであり、敬愛する長嶋茂雄の復帰などは本人のその後の活動に大きな影響を及ぼしている。



松本 隆は、日本の作詞家である。ロックバンド「はっぴいえんど」の元ドラマー。東京都出身。港区立青南小学校、慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校卒業。慶應義塾大学商学部中退。

東京都港区の青山生まれ。父は大蔵省の官僚で、中学校から大学まで慶應に通った。生まれ育った青山を基点として、多感な時期に多くの時間を過ごした乃木坂や麻布、六本木や渋谷界隈の範囲を「風街」と呼び、心の拠り所として愛している。

ビートルズの影響を強く受けたと語っている。「はっぴいえんど」の母体となった「エイプリル・フール」時代、常に本を持ち歩いていて文学青年に見えたことから、細野より「松本、詞を書け」といわれ作詞を担当するようになる。あるラジオ番組によれば、細野から「こんな詩を書け」といわれて渡された、輸入盤レコードを大学の友人に訳してもらい、自分なりに似せて作ったところから始まったらしい。

妹が生まれつき病弱で早くに亡くなっており、そのことが詞が優しいといわれる理由ではないかと自ら語っている。

「はっぴいえんど」在籍中は、つげ義春や永島慎二など『ガロ』系漫画や渡辺武信の現代詩に影響を受けた独特の作風で、都市に暮らす人々の心象風景を「ですます」調で描き、一部に熱狂的支持者を生むとともに、日本語ロック論争の発端となった。また、「はっぴいえんど」のメンバーにはそれぞれ別名があり、松本は「江戸門弾鉄」名義で初期大滝詠一のソロ曲の作詞も担当。五つの赤い風船の「えんだん」で初めて、他のアーティストに詞を提供した。

「はっぴいえん」ど解散後、南佳孝『摩天楼のヒロイン』、あがた森魚『噫無情(レ・ミゼラブル)』などのアルバムをプロデュース。アグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」で歌謡界に本格進出し、太田裕美が歌った「木綿のハンカチーフ」で作詞家としての地位を確立した。歌謡界に身を投じたきっかけは、『ヤングギター』編集長の山本隆士に「メジャーな分野で詞は書かないのか」と問われたことだった。松本が「あんなものはいつでも書ける」と言い放ったところ、「言った以上は証明してみろ」と山本にいわれ、「それならやってやろうじゃないか」となった。初めは歌謡界を見下していたが、「この詞には曲をつけられないだろう」と作曲家の筒美京平に「木綿のハンカチーフ」の歌詞を持っていったところ、あっさりと曲をつけられてしまう。以後、作詞に没頭するようになった。

筒美京平とのコンビで中原理恵「東京ららばい」、桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」、近藤真彦「スニーカーぶる~す」などを手掛ける一方、'80年代よりはっぴいえんど時代の仲間たちを歌謡界に呼び寄せ、ヒットメイカーとしての快進撃が始まる。ミリオンセラーとなった細野とのイモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」や大瀧詠一の大ヒット・アルバム『A LONG VACATION』、第23回日本レコード大賞を受賞した寺尾聰の「ルビーの指環」、そして松田聖子の24曲連続オリコン1位中・17曲を手掛けるなど、阿久悠に代わり歌謡界で一時代を築き上げた。

その後も薬師丸ひろ子、斉藤由貴、中山美穂、C-C-Bなど多数のアイドル、アーティストに詞を提供。作詞以外の文筆活動も行っており、代表作ともいえる私小説『微熱少年』は、自身が監督して映画化された。これは作詞を担当した鈴木茂の曲と同名タイトルである。現在は自主レーベル「風待レコード」を設立し若手の育成に努めながら、KinKi Kids、中川翔子のヒット曲も手掛けるなど活躍中である。ドラマ『のだめカンタービレ』では「ピンクのモーツァルト」(松田聖子)を引用し、また、アニメ『マクロスF』の挿入歌「星間飛行」(ランカ・リー=中島愛)のヒットなどで新たな世代にも存在をアピールした。

クラシック音楽にも造詣が深く、シューベルトの歌曲集「冬の旅」「美しき水車小屋の娘」に現代日本語訳をつけた。1999年には、カナリア諸島へ伝説の指揮者カルロス・クライバーの演奏会を聴きに行ったことがある。


鈴木 茂は、日本のミュージシャン、編曲家である。

はっぴいえんど、ティン・パン・アレーなどのメンバーとしてギターを担当した。

1968年、林立夫、小原礼らとともにスカイを結成。1969年に細野晴臣に誘われ「はっぴいえんど」に加入しギターを担当、「花いちもんめ」などの楽曲ではボーカルを務め、バンドの解散後に細野らとキャラメル・ママを結成、ティン・パン・アレーへと発展させる。

1975年にはアメリカのミュージシャンを起用しロサンゼルスで録音した初めてのソロアルバム『BAND WAGON』を発表。帰国後、ハックルバックを結成し「ベイ・エリア・コンサート」やライブハウス、学園祭に出演。『ほうろう』を発表したばかりの小坂忠のバックをティン・パン・アレーのメンバーとして務め全国ツアーも行った。1992年には尾崎亜美、小原礼らとともに桃姫BANDを結成。阪神・淡路大震災の復興チャリティユニットとして声優の神谷明の呼びかけで結成されたWITH YOUに、尾崎・小原らとともに協力ミュージシャンとして参加。1997年に発売されたチャリティCDにも参加している。2000年には細野・林とティン・パンを結成した。

鈴木が他の日本のギタリストと比較して明確に異なる点は、複雑なコード進行を身上とする70年代の日本のニューミュージックに、リトル・フィートのローウェル・ジョージらの影響を受けたボトルネックプレイを展開したことである。その演奏は前述の『BAND WAGON』だけではなく、荒井由実の『COBALT HOUR』などでも耳にすることができる。ピックだけではなく、指で弦を弾き、つまむ、独特なピッキングスタイルが、他のギタリストにない、粘り気とパーカッシブな響きを持つ音を生んでいる。その後、アレンジャーやセッションミュージシャンとして活動する。

Wikipedia抜粋)



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「葡萄畑」 「乱魔堂」 「センチメンタル・シティ・ロマンス」  「エイプリル・フール」  「キャラメル・ママ」 「ティン・パン・アレー」 「イエロー・マジック・オーケストラ」  「イモ欽トリオ」・・・・・


懐かしいグループ名がイッパイでてきましたね・・・


20歳から30歳ぐらいの人、 上にあるグループ名をいくつか出してみて

「お父さん(お母さん)、このバンド知ってる?」と訊いてください

おそらく

「おーっ  〇〇〇〇〇か!! ・・・・・」と30分は話し続けますよ   ホントに


桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」も松本隆の作詞でしたね、桑名さん 大丈夫かな・・・・

Nicoは仕事絡みで45回 桑名さんと飲み会してます。 すごく熱い いい男ですよ・・・)



はいからはくち

http://www.youtube.com/watch?v=DQ8DQJYot1s&feature=related


風をあつめて

http://www.youtube.com/watch?v=7QX1w_PazZU&feature=related