最近よく「インターネットの普及によってすぐに答えを見つけることができる」という記事を目にする。

この類の記事ではインターネットの普及の良さにも言及しながらも、結論はきまってその問題点に関するものである。

(ただ、先に述べておきたいのは、この記事でインターネットの良し悪しに言及したいわけではない。)

 

確かに私も知らなかった言葉や公式などをすぐに検索する傾向にある。

特にひどい記事では、紙の辞書で調べろとさえ書いている。

その意図はせいぜい「調べる過程に意味があるのだ」と書いてあるのだ。

 

もちろんその考え方はもっともだが、たいてい調べるという過程においては、

あらたな分野の知識を広げたいわけではない。

例えば、試験勉強の過程で知らない英単語に出くわしたとき、その単語に意味さえわかれば十分である。

調べる過程が大切なのだという人の主張は、

「その単語の類義語、成り立ち、イディオムを知ることができる可能性があるだろう」

とでいうのだろう。

その考え方もわからないでもないが、私たちには英単語を覚える時間やイディオムを覚える時間のときに、

同じようにしてインターネットで検索してその意味さえ理解すればまた満足するのである。

 

時間が有限でないならば、調べる過程は常に重要であるという主張は正しいと思う。

しかし、せいぜい英単語ひとつでいろんな知識に苛まれてはたまったものじゃないのだ。

 

ただ唯一、私が彼らの主張に同意する場合がある。

それは、インターネットでいくら検索しても正解が出てこないようなものに関してだ。

なぜ私たちは生きるのか、愛とは何か、人生とは何か、今自分が何をするべきか。

このような答えのない問いに関しては、調べる過程が重要なのである。

 

私は、自分が死ぬ瞬間に答えのない問いに関して、自分がどのような答えを持って死んでいくのかが気になっている。

今自分が持っている答えとはおそらく違う答えを持っていることだろう。

 

答えのない問いに対する答えは、この”調べる過程”こそがその答えとなる。

なぜ生きるのか? ーー生物学的には子孫を残すためだ。

愛とは何か?   ーー自分を満たしてくれる対象である。

人生とは何か?  ーー生涯のうちに得たもの全てのことだ。

 

こんな具合に、答えの一つになりそうなものをてきとうに挙げてはみたが、

この答えに100%賛同する人は誰1人としていないだろう。

なぜなら、これらはインターネットのどこを探しても見つからない答えだからだ。

 

だから私は、答えのない問いに対しては、調べる過程を大切にしている。

しかし、ここで問題なのは、冒頭に述べた記事を見たほとんどの人は、

「答えのある問いをインターネットで一瞬で調べることが良いか悪いか」

という問いにすり替えて考えてしまうことである。

しかもそのすり替えは、一瞬の間に無意識に行われてしまうから怖い。

 

そんな私は、やはり答えのある問いはすぐに見つかって欲しいと思うタイプである。

それよりも答えのないもに時間を費やしたい。

 

ところで、思い返してみると、

答えのない問いを追求するときに、何かしらの期限を設けられたことはあっただろうか。

答えのあるものはしばしば制限時間を設定される。試験なんかがいい例だろう。

有限にして、なおかつその優劣を確実に定めることができる。

 

おもしろいのは、答えのない問いの場合、無制限のくせに優劣を定めることができないというところだ。