外務省外交史料館の史料の中で、第二次世界大戦が勃発する前前の軽井沢の別荘に関して興味深い史料が見つかった。
当時県知事は、当該県を訪れた各国の外交官の行動を監視し、逐一内務省に報告した。
大村知事は内務省の出身のためか、他の県知事以上に詳しく報告している印象を受ける。
「1938年5月12日 長野県知事大村清一発 内務大臣他宛」
「1937年度、軽井沢で夏を過ごした各国大公使は12か国、公館員は27ヵ国70名を数えた。
7,8月の最盛期の一般外国人避暑滞在者数は1500,600名に及ぶ。
この夏(1938年)は事変(盧溝橋事件のことか?)の影響等による推移注意中の所、外国人別荘370余戸の内、借入契約を終了するものすでに360戸に及ぶ状況にて、その内各国大公使並びに公使館員にして現在までに来軽予約決定せるもの、次の如く」
→ここまでで分かることは、別荘の内370戸が外国人向けであったという事だ。1939年には軽井沢で770戸余りの別荘があったという。その内およそ半分が外国人向けという事になる。
そして外国人向けの別荘とは、布団ではなくベットがあり、トイレが西洋式などという事か。
すでに5月頃にはその夏の居住者はほぼ決まっていた。今はどうだろう?個人所有の別荘が主体か。
別荘ごとに短い情報を添えて紹介する。軽井沢避暑団と郵便局で設定したハウスナンバーは、今回地域別に整理するのにも役立つ。
<愛宕山方面>
815番 フィンランド公使 フーゴー・ヴァルヴアンネ
→旧朝吹別荘
862番 ポーランド大使館書記生 ポレスラフ・シユゼスニアツク
→宣教師モッズ師の別荘。「チェコの公使館があった」という情報が戦後広まったことがある。
881番 米国海軍武官室 大尉 ギル・マックド・リチャードソン
881番 同上 中尉 アルバ・ブライアン・ラスウェル
→当時「高嶺」氏所有の別荘の様だが、詳細は不明
951番 ポーランド大使 タッジ・ド・ロメール
→ポーランドは翌年ドイツに占領され、大使は日本を去る。
その後別荘はアメリカのハーレー・ダヴィッドソン日本支社の社長が所有する。
<旧中山道を峠の方に向かって右側>
1045番 アルゼンチン公使 エドワルド・ラヒト
→日本人最初の別荘「八田別荘」が1046番であったのでその隣か。
1192番 ドイツ大使館書記生 デッペ
→ヴォーリズレーンを少し登ったたところの近藤友右衛門の貸別荘。
近藤は碓氷峠周辺を開発し、昭和に入ってから旧軽井沢銀座に近藤長屋を建てた名古屋の豪商。
1202番 ノルウェー公使 フイン・コーレン
→こちらも近藤友右衛門の貸別荘。
1275番 ベルギー大使 ベロン・ド・ベッソンピエール
→宣教師ジョージ・ブライトウェートの別荘。
1295番 ブラジル大使 ペドロ・セアオ・ヴエローズ
→宣教師リーズ・グーリックの別荘。
こちらは前年1937年には「駐日ドイツ大使夫人 フォン・ディルクセン大使に同伴して滞在中」との報告があり、ドイツ大使夫妻が利用したことが分かる。
1275番同様、宣教師の別荘に入るということはすでに日本を離れたということか。
1410番 オランダ公使 イエイ・セイ・パブスト
→スイス人 ジョン・ストラーザーの別荘。
ドイツ人、ヘンリー玉置さんの父親がおそらく1938年にこちらを買い、建物を新しくした。
1415番 チェコスロヴァキア公使 フランチシェク・ハヴリチェック
→チェコスロヴァキアがドイツに併合され公使が帰国した後の1415番に、ドイツ大使が入ったことはすでに別稿で書いた。(こちら)
1421番 英国2等書記官 A.A.F.ヘイグ
→終戦時にはアルメニア人のアガジャン一家が疎開した。
終戦直後の1421番
<前田郷>
2501番 スペイン代理公使 フランシスコ・デル・カスティーリヨ
→三笠ホテルに近い前田郷の別荘。偶然かもしれないが1945年の終戦時は、隣国ポルトガル公使一家がここに疎開する。
<戦争が近づいてきて、日本も贅沢の禁止が叫ばれるがまだ新築中の別荘がある>
新築中 トルコ大使 ヒユスレブ・ゲレーデ
新築中 米国海軍武官室 中尉 ロバート・デイ・ハドソン
新築中 米国海軍中尉 アーサー・ベネディクト
以上見てきたように、世界が不安定になってきた中でも、すでに10か国の大公使が春には契約を済ませている。
欧州の国が多いが、1939年9月のドイツのポーランド侵攻以降、いくつかはドイツに占領され間もなく日本を去る。
大きい国で欠けている国を補足すると、フランスとイタリアの大使は日航中禅寺湖畔に立派な別荘があり、そちらを主に利用している。
英国のロバート・クレイギー大使は1938年の夏は中禅寺湖畔の別荘に滞在した記録が残る。英国の外交官で明治維新に大きな影響を与えたアーネスト・サトウの個人別荘として1896年に建てられた。
アメリカのジョセフ・グルー大使は1941年の夏に万平ホテルの3室を借り切っていたと、新聞が報じている。
以上が戦前最後の年の、各国大公使の避暑した別荘である。
ややとっつきにくい内容かもしれないが、いかに軽井沢が多くの大公使に愛されたか、お分かりになったら幸いだ。
次も大公使の軽井沢について書く予定。
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