昨年、「音楽家 斎藤秀雄と軽井沢」において斎藤の妻であったドイツ人シャルロッテ・ランゲが戦時中に軽井沢に暮らしたという話から、彼女の母親はケーテ・ランゲであろうと根拠を挙げて推測した。
彼女は軽井沢で1415番と1649番と、女性であるがふたつの別荘を所有していた。
そんな点にも興味を持ち、ケーテ・ランゲについてさらに調べたが、結論を先に言うと斉藤の義理の母という推理は正しくないようである。一方ケーテから軽井沢のドイツ人について興味深い話が出てきた。
終戦と共に、進駐してきたアメリカ軍はドイツ人を全員調べた。そしてナチスの影響の少ない「好ましくないドイツ人」、逆の「好ましいドイツ人」にクラス分けした。「好ましくないドイツ人」とされた者は財産を没収され、本国への強制帰国となった。
そのためGHQの史料の中には戦時下の日本にいたドイツ人ほぼ全ての情報が残っている様で、今回も筆者はそこから調べた。これらは残念ながらネット上には公開されていないので、国会図書館内憲政資料室に行く必要がある。
<マッカーサーへの直訴状>
ドイツに強制的に送り返されたケーテは、1948年5月11日に連合国軍最高司令官「ダグラス・マッカーサー」に宛てた手紙を書いた。少し長めに紹介する。
「3月末の星条旗新聞によると、ナチスの財産であった品物は占領軍関係者に売却されると知りました。
私は一度たりともナチ党とは関係ありませんでした。そして私の希望に反し1947年にドイツに送還されました。こちらドイツでの非ナチ化裁判では、私はナチ党と関係がないことが証明されました。
私は今でも私が送還されたのは連合国軍最高司令部の何かの間違いだと考えております」と書き、先の新聞記事にあったように自分の財産がナチの財産として処分されてしまうことを恐れた」
そして自分について書く。要約すると次の通りである。
ケーテが日本にやって来たのは1920年6月の事であった。そして1947年2月の強制帰国まで短い2度の一時帰国を除けば、ずっと日本に暮らした。27年間もドイツにいなかったことで、まったく地縁もない。
来日の目的は不明だが、第一次世界大戦直後に女性が一人で、ビジネスをするためにドイツから日本にやって来るとはなかなか考えにくい。もしかしたら他にも例があるが、ドイツに留学していた日本人に結婚を申し込まれ、信じてやってきたら、相手には妻子がいて一人で生きていくことになったのかもしれない。
彼女は1886年生まれでその時62歳であった。ドイツには貯蓄もなかったので、私は余生を日本で過ごすことにしました。そして長年ためたお金で、軽井沢に2軒の家具付きの家と土地を購入した。
死ぬまで働き続ける事は出来ないので、生活費のために2軒の家をペンションとして貸し出すつもりであった。ちょうど1411番でゾンネンシャインというドイツ人保養所(ペンション)を運営していたレーデッカー夫人の様に。
実際にはすでに協力していて、彼女のペンションが一杯の時は、私の別荘を提供してよいと言っておいた。
彼女は強制的に戻されたドイツでは老齢年金ももらえす、大変厳しい状況であった。
ハウス・ゾンネンシャイン
<軽井沢1415番別荘>
財産を没収されたドイツ人は沢山いたが、マッカーサーに直接手紙を書いた人物は多くはないはずである。それほど必死に実情を伝えようとしたといえよう。
この1415番の別荘は筆者の調査ではしばしば登場する。
先日は「堀辰雄『美しい村』の”チェコ公使館”の場所が判明」においてチェコスロヴァキア公使が1937,38年と避暑に利用したことを書いた。堀辰雄が1941年から44年の間に住んだのは向かいの1412番である。
その後1941年の夏はオイゲン・オット駐日ドイツ大使が利用した。(『続続 心の糧(戦時下の軽井沢)』より)
ここは大公使級の人物が利用する別荘であった。部屋は10あった。従者などを連れて来るには好都合であった。
GHQのケーテ・ランゲのファイルの中に建物の写真が残っていた。
(下の写真。写真の下にNorth West View #1415と文字が入っている。いつもながらに写真の質は良くない)
筆者も初めて見る終戦直後の同別荘であるが、2階建てで横に長いことが分かる。
またケーテが1415番を入手した状況も判明した。
土地をケーテに売却したのは駒込に住む堀キヨシであった。彼は1918年に999年の借地権を取得した。そして1944年8月20日にこれをケーテに売却した。日本の戦況が悪化する中、そのようなタイミングで贅沢品の代表格の別荘を購入しようとする日本人はほとんどいなかったであろう。ケーテは先に書いた理由で購入した訳だが、堀にとっては渡りに船であったか。
余談ながら、1942年、43年はおそらく堀辰雄に堀キヨシの2人の「堀」姓が向かい合って住んだ。
1939年頃の「軽井沢別荘案内図」では1415番が堀、1412番がスミスとなっている。1415番の堀は間違えかと筆者は長く思っていたが、今回正しいことが判明した。
そして1945年8月、日本が終戦を迎えた時、1415番にはハック家(9名)とルイゼ・バウアルトというドイツ人が疎開していた。先のケーテの手紙から、レーデッカーのペンションに入れなかった人がこちらに間借りしたと考えられる。
<その後>
マッカーサーが個人宛の手紙を全部読んだかは定かではないが、そういうこともあってかGHQでは真剣に対応している。1949年11月28日、「ケーテ・ランゲの件に関して」としての次の内容の文書が残る。
1 彼女はドイツ大使館で働いていたことは異論の余地がないので、1947年に「好ましくないドイツ人」に分類されたことは問題がない。
2 しかしながらその後カテゴリー分け基準が緩くなり、ケーテのように高齢という理由で、温情的判定がされてきた。
ということで彼女に好意的な判断となったようだ。
そして1950年にふたりのアメリカ軍関係者に売られた1415番の代金は彼女の元に届いたようである。
その後この別荘はオーストリア人を夫人とする日本人音楽家が所有するが、それも売却された。この一家が購入した際に、以前にチェコ公使が利用したことがあることが伝えられ、堀辰雄の『美しい村』に登場するチェコ公使館であったと言われるようになったのではないか。
こうした”数奇”な運命をたどったケーテ・ランゲ、そして1415番であった。
長い文をお読みいただき、ありがとうございました。
メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら
「又心の糧(戦時下の軽井沢) 」はこちら