ドイツ人、エルヴィン・ベルツ(Erwin von Bälz 1849- 1913)は1876年(明治9年)、お雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師に招かれる。彼は葉山に別荘を持ち、同地に御用邸を建てることを進言した。

 

筆者はその後ドイツ人が湘南地方多く別荘を持ったのも、元はベルツの影響によるものだと考えている。彼が残した『ベルツの日記』 から湘南に関係する箇所、および筆者の関心の横浜、軽井沢に関する箇所を抜き出し、検討を加える。日記に続き⇒以降に書いたのが筆者のコメントである。

 
1938年(昭和13年)7月 日記出版の題言(前言)として

「葉山が避暑避寒に適することは、明治20年(1887年)東京駐剳のイタリア公使マルチノが唱道したものであるが、(ベルツ)先生もまたこれを称賛して22年(1889年)に別荘を営まれ、日本人の間に宣伝され、遂に後に御用邸が置かれるに至った」と、ベルツに師事し内科無給助手となった入澤達吉が書いている。

⇒明治中期にはベルツはすでに葉山に別荘を持っていた。ただし当時は外国人は土地の購入は出来ないから、日本人の名義であろう。その場所であるが、ベルツ自身も書く「堀内」地区にあった。グーグルマップにはその堀内に「ベルツ別荘跡」というのがあるが、海岸沿いではなく、少し内陸で今はアパートになっている。そして碑などは何もない。本当にここにあったのであろうか?一方(堀内の)海岸沿いにあったという記述もネット上にはあるので、こちらが正しいのではないか。

 

グーグルマップが「ベルツ別荘跡」と示す場所の近くのソテツ公園

 

さて本題、日記にはいる。

1879年(明治12年) 7月6日 

「本日午後、バイル、ネットー、ナウマンその他と横浜へ、横浜から馬車で江の島へ。日本のある役人が海水浴場を設けようと計画しているので、それに適した場所をそこで探そうと思った。

しかし江の島自体は、岩の多い浜辺であるため、あまり適当でないことがすぐわかった。これに反して、七里ガ浜と称せられる海岸地帯の、片瀬に境を接する部分は、これに反しておあつらえ向きである。そこの浜辺は素晴らしく、底がよくて、岸にはじゃまものがない。なんとかなるだろう」

 

⇒横須賀線のまだ開通していないこの時、横浜から馬車での江の島訪問であった。日本人が海水浴場をどこに開くのが良いか、ベルツらに尋ねた。同行のナウマンは地質学者でナウマンゾウは彼の名前にちなんでつけられた。

今日の「鎌倉観光公式ガイド」によれば

「七里ガ浜は日本の渚100選の一つ。四季を問わずヨットやウィンドサーフィンを楽しむ若者の姿があり活気のある海岸で全長約4km。海岸の状態から海水浴には適さない」と書かれている。

 

1879年12月26日―31日

「熱海―箱根方面へ進出。温泉場を開く計画に関して熱海を研究。今までに全然利用されなかった村の北方部分を考慮する限り、好適地だ。付近を楽しく散策。島や入り江のある海、伊豆全域と富士山への見晴らしは一生忘れられない印象である」

⇒熱海を絶賛している。

 

1880年(明治13年)6月23日

「(ある患者を診て)ダボスならば助かるかもしれない。だがこの東京では運命に任せるよりはほかはなかろう。この国には高地の気候療養所がまだない。――自分は久しい以前からそれを設置させようとして大いに尽力したのではあるが――。箱根、草津、伊香保でもよいのだが、しかし医者が居ない」

⇒高地に療養所を作りたいがまずは、(患者を診ることのできる日本人の)医者がいないと残念がる。

 

1880年11月8日 

「独りで江の島へ行く。形容する言葉もない好天気。谷を通り、丘を越えて3時間、あるいは徒歩で、あるいは人力車で鎌倉へ。(大仏から)なだらかな丘を越すと七里ガ浜の海岸に出るが、ここは、自分にとっては日本で一番美しい地点である」

⇒ベルツは七里ガ浜海岸の景色がとても気に入っていた。

 

七里ガ浜。右には富士山も見える。恐らくベルツが見たのもこのような景色であろう。

 

1889年(明治22年)

「1月12日 正月の2日から10日まで家に。それからようやく、イタリア公使マルチノ氏と一緒に汽車で国府津へ。そこから沿岸航路の汚い小蒸気船に乗り真鶴へ。この地方が冬季療養所に向いているかどうかを調査しようというのである。数年前から、ここに目をつけていたのだ。恐らくは、何とかものになるだろう」

⇒イタリア公使マルチノは葉山に別荘を持ち、ベルツと共に葉山を賞賛し現在はふたりを称える碑が森戸海岸にある。建てたのは日記の前言を書いた入澤達吉である。

 

4月20日-22日 高田と共に、宮の下および真鶴へ。

「美しい林でおおわれた真鶴崎が、どんなに一流の冬期療養所や海水浴場を提供するかを、彼(日本の役人)に了解させた」

 

⇒東海道本線全線が開通したのも1889年の事であるが、国府津からは今の御殿場線のルートをとり海岸沿いは通らなかった。よってそこから海路で向かう。真鶴方面に向かう「豆相人車鉄道」の開通は1896年だ。

 

熱海にある「豆相人車鉄道」の記念の碑

 

 その真鶴にベルツの進言通りに冬季療養所は出来なかったようだ。日本で最初の海浜サナトリウム(結核療養所)は鎌倉の由比ガ浜に開かれた。その推進人物である長与専斎は直接ベルツの下で直接学んだ人間ではない。
海浜サナトリウムは皇族や華族、政財界らにの間に海水浴を取り入れた保養、療養の思想を浸透させる目的で創設されたが、2年程で経営は行き詰まり、鎌倉海浜ホテルとなる。

 

由比ガ浜の海浜サナトリウム、海浜ホテルがあったことを示す碑

 

7月12日―18日「ミハラシ」滞在。

「箱根山中にある自分のささやかな山荘「ミハラシ」は、全く「良い眺め」というその名に背かない。実際、全山中で最も景色の良い場所である」

⇒この「ミハラシ」のあった場所にはプレートが残されている。別荘跡は現在「木賀湯滝温泉源泉地」と温泉の湧き出る場所になっている。

 

7月25日(宮ノ下)

「妻は子供たちを連れて、昨日こちらへ来た。我々は山口の別荘に移った(富士屋ホテルのこと)。みな元気で健康だ。ウタとトク(二人の子供)は、この宮ノ下で大喜びだ」

⇒富士屋ホテルは1873年、山口仙之助によって開かれた。山口とベルツは交流があった。戦時中はドイツ人水兵たちが疎開した芦之湯松坂屋の外国人宿帳にも、ベルツの名前が残されているという。

 

昔の面影をよく残す富士屋ホテル。

 

ちょうどこの頃の1887年(明治20年)、ベルツは「皇国の模範となるべき一大温泉場設立意見書」を宮内省に提出した。

「完全無欠の模範となるべき一大温泉療養所を設立せんとして、久しくその場所を探したが、漸くこれを発見することができた。その唯一の場所は、箱根山中、大地獄即ち大涌谷の西北涯で、目的に必要な条件をすべて具備し、実に得離き好地である。もし自分の計画が実現するならば、単に日本に寄与するのみならず、中国、インド、アメリカはもちろん、ヨーロッパにおいても名声を得ることは間違いない」

⇒今日の箱根のインバウンドツーリズムはベルツに負うところが多いといえよう。

 

1903年(明治36年)12月23日

「夜、横浜のゲルマニアクラブへ。その創立40周年のお祝いがある。こんなクラブを持つことを自慢できるのは、ドイツ人だけである。他のクラブは皆、もっと国際的で、ことによこはまユナイテッド・クラブがそうだ」

⇒学者仲間だけではなく、ドイツ人社会との付き合いもあったことが分かる。

 

1904年9月16日夜(軽井沢)

「たった10人の客しかいないホテルの事だから、静養くらいは出来るはずだと思っていたところ、昨夜遅く着いて今朝、朝食後には、すでに診療を求めて面会をこうもの二人、京城の一紳士と、南シナ厦門の一婦人だ。

 

 軽井沢は、気候の乾燥した点で知られており、夏は外人が多数訪れる。 主として英米系の新教伝道者で、めんどうな仕事の労苦を、ここに3か月滞在していやさねばならないそうだ。しかし信者たちは下界で汗を流して日ごろの精神的慰安で満足することを考えておればよいのだ。これだから自分は、かれら宣教師連には好意がもてないのであって、自身には何一つとして犠牲を課することなく、教えに従わずして貧をいとい、高原に別荘を構えてスポーツにふけり……それならば何故カトリックの宣教師たちは、こんな休養を必要としないのであろうか?

 

 当地には、回復期の傷病兵が、千名ばかり滞在している。先刻教会の前を通りかかったところ、ちょうど礼拝の時で、そんな兵士たちもこの礼拝に誘い込まれていた。

 わが国ドイツの牧師も二人、夏のあいだ、高原に腰をすえて、休養をとっている。がしかし、別に宗教上の仕事から体を休めるというわけではない、なにしろ、そんな仕事はないのだから」

⇒湘南地方を絶賛したベルツだが、もう一つの国際保養地軽井沢には強い嫌悪感を抱く。それは軽井沢の気候とかではなく、英米のプロテスタントの宣教師の一大勢力地であり、長い休暇をとる彼らの生活態度からであった。休暇重視の米英人に対し、ドイツ人のベルツは仕事重視であったと言える。

 1000名ほど滞在していた傷病兵は、同年2月に始まった日露戦争によるものだ。随分多い人数である。翌年2月、東京には13000名の傷病兵がいるともベルツは書いている。

 

ベルツが通りかかった教会は、やはりアレキサンダー・クロフト・ショーによって創設された軽井沢最古の教会、現軽井沢ショー記念礼拝堂であろうか。

 

ショー記念礼拝堂

 

9月19日

「朝4時半頃、軽井沢を出発。村では、たいていの兵士たちがもう目覚めていて、井戸や小川で手水を使うのに忙しかった。誰もかれも、丹念に歯ブラシを使っていた。わが国でも、農村の若い連中は毎朝、口をすすぐが、歯は磨くかどうか?

軽井沢から草津への道程は42キロある。この道を、もう何度歩いたことか!

草津には、無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、まったく理想的な飲料水がある。こんな土地が、もしヨーロッパにあったとしたら、カルルスバートよりもにぎわうことだろう」

⇒草津をチェコの有名な温泉地、カールスバートと比べている。箱根同様に草津を絶賛したベルンにちなんで、「ベルン通り」が草津にはある。

 

10月5日(間門ホテル)

平穏な数日を著述に過ごすため、今日、横浜のこの静かな間門(まかど)ホテルへ来た。場所はマツの生えた丘の中央で、ちょうど「新道」が海に達する角にある。眺めは全く素晴らしい。宿の人々はドイツ人で、客に愛想が良い。厳密にいえば、まずまずホテルとは称しえないもので、わずかに6部屋しかない。主な収益は食堂の方で、横浜の市民が、日ごろこの新道(延長6キロの環状道路で、確かに世界中で景色のもっとも良い道路のひとつだ)を散歩や遠乗りの途中、よくここに立ち寄るのだ。

宿の主人公ハーン氏が、面白い話を聞かせてくれた。

⇒横浜、本牧の間門地区にあったのが「間門ホテル」。1903年(明治36年)に建てられた外国人向けのリゾートホテルというが、経営者がハーンというドイツ人であることなどが分かる。Japan DirectoryによればF. Carl Hahn(カール・ハーン)が間門通り4231番に住んでいた。ホテルの住所である。

 

11月19日

午後、大磯に赴く。(海軍大将)樺山伯爵から、心臓を患っている泊の義兄弟赤星の診察を求められたのだ。

車中で伊藤侯爵に会う。恐らく大磯の良い空気が、候の若々しさにあずかっていて力があるのだろう。

自分(ベルツ)は、横浜の山手に住みたいと思っている。そこではいつも、はるかにのびのびしたすがすがしい心地がするのだ。

⇒葉山を推奨したベルツが横浜の山手に住みたいと思っていたのは意外だ。しかし高くて住めなかったのか?

 

湘南のドイツ人に関する調査の一環で読んだ『ベルツの日記』であるが、ここに書き記したものは、どこか自分の備忘録のようなものになったかもしれない。最後までお読みいただいた方に感謝する。

 

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