先に書いた富士屋ホテルがアメリカ軍に接収され、追い出された枢軸国の外交官が移った先というのは「強羅ホテル」だった。

 

まずこの強羅ホテルについて説明すると、箱根登山電車の終点強羅駅とほぼ並行して建ち、1938年に竣工した。当時としてはモダンな4階建てのコンクリート建築であった。建てたのは富士屋ホテルであったが、戦時中は東京急行電鉄の手に移る。

1998年に老朽化のために閉鎖され、今は同じ場所に「季の湯 雪月花」がオープンしている。富士屋ホテルとは関係は切れているが、強いて言えば横に長い全体の佇まいはかつての強羅ホテルを受け継いでいる。

 

かつての強羅ホテルの場所に建つ「季の湯 雪月花」

 

ここには1944年の秋にソ連大使館員が疎開してきた。社会主義となったソ連を逃げて来て無国籍となった白系ロシア人はかなりいたが、戦時中ソ連の日本駐在員は、大使館員とタス通信の通信員のみで、全員がここに疎開した。90名ほどだ。日本政府の指定した軽井沢の万平ホテルは暖房が効かず食糧事情も悪いと、日本政府の方針に背いて強引に移った。

 

箱根でも同様に食糧のクレームを出している。ドイツとの戦争も有利に展開し45年5月には勝利に終わる。ソ連との戦争を何としても避けたい日本に対し、ソ連大使館はかなり強い態度を取った印象である。彼らの派手な振る舞いに「赤い貴族」と呼ぶ者もいた。

 

45年7月、ソ連の対日参戦のわずか一か月前にもかかわらず、ソ連は館員の家族を帰国させた。彼らの荷物は数百個に及び、トラック2台分にさらに貨車で、何とか要望通りに対応した、と外務省箱根事務所の亀山参事官は報告している。敗戦直前で日本はガソリンが払底していたにもかかわらずである。

 

またこの強羅ホテルを舞台に、一縷の望みで日本の和平工作が展開された。日本はソ連を通じて連合国との終戦の可能性を誘った。45年6月、広田弘毅元首相は私的な来訪を装ってマリク大使を強羅ホテルに訪問し、ソ連の条件を探り出そうとした。しかしソ連は既に対日参戦の方針を固めていたことに加え、日本側の条件を明確にしなかったこともあり、広田は時の東郷外相が期待した返答を得ることはできなかった。

 

そして間もなく8月15日の終戦を迎えると、戦勝国となったソ連の外交官は全員すぐさま麻布の大使館に戻る。そうして空いた所にドイツ大使以下が移り住んだのであった。そこではスターマー大使、クレッチマー武官らの居室には常にアメリカの番兵が付いて監視し、食堂でも同様であった。
 

同年11月19日、富士屋ホテルの本多領事は吉田外務大臣に充てて、
スターマー独大使に面会の件
GHQの爆撃調査団「パウル・バラン」博士より、来たる23日(金)午後2時、「強羅ホテル」において独大使スターマーに面会したいので同ホテルに待機させるよう指令が来た、

と報告している。この時点でドイツの大使はすでに強羅ホテルにいたことが分かる。

 

これまで見てきたように終戦時、外交史料館にはドイツ人の記録はかなり残されているが、なぜかイタリア人の記述は見つからない。そうした中、以下は『消えた宿泊名簿』(山口由美)からである。

「当時強羅ホテルに勤めていた黒川好男は1945年の12月、イタリア大使一行が連合国軍によって連行される様子を見たと言う。代理大使のプリンチピニ、妻のティナー、美しい笑顔を見せていた娘のステファニ。一家は、連合国のジープに乗せられて、人目を避けるように玄関を出ていったという」

イタリア人外交官も同様に強羅ホテルに移ったことが分かる。

 

1945年12月に強羅ホテルは国際興業の傘下に入る。

それとの関連は不明だが、その頃にはドイツ人の中には強羅ホテルは高いので他に移りたいという声が出ている。

その後多くの外交官は熱海観光ホテルに移り、スターマー大使も1947年、そこから本国に戻る。

 

箱根登山電車の強羅駅付近。後ろに見える「箱根 強羅ホテル パイプのけむり」は微妙に「強羅ホテル」の名前を彷彿させる。そして親しみを感じる。筆者の書籍のタイトルは「心の糧」、「続 心の糧」、「続続心の糧」と団伊玖磨の「パイプのけむり」に倣っているからだ。

(続く)

 

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