戦前のドイツ大使館は永田町の国会の北側、現在国会図書館があった場所にあった。

その大使館について残された史料は少ないが、その少ない一つがその国会図書館の憲政資料館に残されているのは歴史の偶然か。史料の名はGHQが調査し残したVested German Property(没収ドイツ人資産)、見にくいが終戦直後の写真も残っているので貴重だ。

現在の国会図書館。ここが正面入り口で時々黒塗りの車が停まっている。

一般者の入り口はさらに進んで左折。

 

ドイツ大使館の建物については「著名な建築ジョサイア・コンドル(J.Conder )の設計により、煉瓦造り2階建ての建物が1897年に完成した」と多くの所で書かれている。

 

そんな中、筆者は国会図書館でGHQの史料から大使館の敷地内の建物の配置図と戦争の被害状況を見つけた。筆者は配置図を見るのは初めてた。それによると;

 

敷地面積:5532坪(約18,300 m2)、現国会図書館は147,853 m2

場所:南に向けやや傾斜地。一部は木や藪に覆われた土地。道を挟んで国会議事堂の向かい。

構造:建物の基礎部分とかつての建物の焦げたレンガの破片。鉄鋼とコンクリートで補強された一つの防空壕が残る。

建物:すべての建物は空襲で破壊された。ただ8棟の建物のレンガの破片が残るのみ。

 

戦後2年ほど経過しても、国会の横は焼け跡、荒地であったことが分かる。

西側のビュー。全て破壊されている。(原所蔵機関は米国国立公文書館、国会図書館所蔵)

 

下の図では失われた点線の形を加え、主な建物がおそらく8棟あった。その内のひとつがジョサイア・コンドルの設計したものであったのだ。

 

戦争中に大使館に勤務したエルヴィン・ヴィッケルトは大使館内の建物について次のように回想している。

「ドイツ大使館は大使及び公使の公邸、新旧2つの大使館事務所、武官事務所が木立や茂みで囲まれ小道でつながっていた。ふたつの公邸と事務所は第一次世界大戦前に建てられたものだった」

大使、公使公邸、2つの事務所、それに陸、海、空軍武官事務所とすれば7棟だ。

 

調査時点の敷地図(原所蔵機関は米国国立公文書館、国会図書館所蔵)

 

この敷地図の太い道を挟んだ、右側(南側)が国会議事堂だ。間の道路が二又になっているのは現在とは異なる。

先の現在の写真で紹介したのはこの敷地の右側中央あたりで、小さな四角は守衛所であろう。

 

建物群は5月25日の空襲で大打撃を受けた。そんな中、次の建物の写真が残っている。これはその下の写真と同一か?

そしてこれは上の地図の中央の実線の建物と形状が似ている。車寄せがあり、これが大使公邸か?

 

 

原所蔵機関は米国国立公文書館、国会図書館所蔵

 

「東京府名勝図絵」明治45年 国会図書館デジタルコレクションより

 

一方ジョサイア・コンドルの建物は日本建築学会が公開している図面だと奥の大き目な点線の部分に思われる。

先のヴィッケルトは事務所の旧棟は「赤レンガの建物で、まるで今世紀初頭の(ドイツ)帝国郵便局のように見えた」と書く。ここがコンドルの設計した建物ではというのが筆者の想像だ。

 

その後ここに国会図書館の建設が決まった時、大使館跡地では防空壕や戦災残がい障害物を撤去し、残がいを利用して建てた住居に4世帯が住んでいた。ドイツ人ではないと思うが、、、

 

国会図書館が開館したのは 1948年6月5日、現在ここにドイツ大使館があったことを示す銘版がないのは、当時のドイツはナチスと結びついていたからか。

(完)

 

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