日独の民間レベルでの交流を目的として組織されている日独協会は、現在はほぼ全県にあると言っても過言ではないであろう。

本編では「ドイツ大観(1940年度版)」に載る当時の日独の文化団体の様子を見ていく。日本参戦1年前である。そこには次の団体が出ている。なおこの「ドイツ大観」の出版元は日本電報通信社(現在の電通)である。

 

1 日独文化協会(東京) 日比谷公園市政会館4階

2 日独協会(東京)   日独文化協会内 

3 日独協会(大阪・神戸)

4 独逸(ドイツ)文化研究所(京都)

5 新潟日独文化研究所(新潟)

6 独逸東亜細亜(ドイツ東アジア)協会 (東京)

 

<日独協会(東京)>

日独協会は1911年、公爵桂太郎、子爵青木周蔵、ドクトル長井長義等が相諮り設立される。小石川ドイツ協会学校内に事務所を設け、毎月一回集会を催して目的の達成に務めた。

1914年8月に第一次世界大戦で日本とドイツが敵味方となると、ドイツ人会員を失って会は有名無実の存在となった。しかし第一次世界大戦後、朝野の(日本人)名士300名にドイツ大使館員を始め、東京横浜のドイツ人有力者80名を加えて、1926年10月に日独協会の復興がなった。

 

<日独文化協会>

日独協会復興から2年後の1928年、日独協会とは別にドイツの文化を日本に紹介し、同様に日本文化をドイツに紹介するために日独文化協会が設立された。両者の区別はつきにくい。実際において以降終戦までは日独間の交流はこちら文化協会が主体となる。住所をみても先に書いたように日独協会は「日独文化協会内となっている」

 

会長   大久保利武侯爵
常務理事 三井高陽(たかはる)男爵
常務理事 荒木光太郎 帝大教授
独逸人主事 ドクトル・ワルター・ドナート (1940年時点)

 

第二次世界大戦後の1952年、再び日独協会に収束して再スタートし、現在に至る。

 

<市政会館と日独文化会館>

戦前、両者は日比谷公園内の市政会館に入居していた。この建物は現存し、東京都選定歴史的建造物に指定されている。歩く人と比べてもその威容が分かる。

 

その後常務理事三井高陽より日伊文化会館敷地に隣接する800坪の土地寄贈があり、そこに日独文化会館が建てられ1943年に移転する。設計は日伊会館と共にオーストリア人建築家アルヌルフ・ペツォルドであった。

しかし新築の日独文化会館は45年5月の空襲で焼け落ちてしまう。市政会館に留まっていたらと考えるのは意味のないことであろう、、、

 

日伊会館の跡地に建つ現在のイタリア文化会館(写真は市政会館を含め筆者撮影)

赤い壁が以下にもイタリアらしいというか、地元からは反対の声も上がった。

 

<日独協会(大阪・神戸)>

第一次世界大戦勃発の十数年前(1900年頃になる)に設立されたが、第一次世界大戦で解散となる。

戦後の1920年11月初め、ゾルフ博士がドイツの大使となって神戸の埠頭に着く。その後に向かった東京では反独感情が特に強かった。

会頭となる医学博士佐多愛彦は、当時大阪医科大の講師ユーバーシャール博士と謀り、率先して大使を関西に迎え、来朝一ヶ月後の20年12月18日に日独協会(大阪・神戸)の発会式を挙げた。

大阪の方が反独感情も強くなく、赴任したばかりの大使を激励した様だ。

 

<新潟日独文化研究所 新潟高校内> 

本会は1939年4月26日市内の伊太利亜軒において発会式が行われた。北陸における両国文化の交歓と普及が目的であった。現在の新潟日独協会は1977年設立なので直接の繫がりはないようだ。

大都市に交じって新潟が出てくるのが興味深い。新潟には日本開港間もない1862年にドイツ領事館が開かれている。以来ドイツとの繫がりは深かったと思われる。なお発会式が行われた「伊太利亜軒(イタリア軒)」は1874年にイタリア人ミオラによって開かれた日本最初のイタリア料理店と言って間違いない。今も続いている。

1939年当時、理事の一人ヤコブ・フィッシャー(新潟高校)については別の場所で触れる予定。

 

<独逸文化研究所 京都> 

(1931年) 時のドイツ大使ドクトル・フレッチェと伯爵清浦奎吾との発議。

戦後は京都大学人文科学研究所に包括される。

第二次世界大戦中も所長のハンス・エッカルトはナチスの資金援助を断っていたという。

 

<独逸東亜細亜協会 東京>

現オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会

1873年3月22日のドイツ皇帝ウィルヘルム一世の誕生日を選び、発足。東京および横浜在住のドイツ人が東亜に関する見解及び経験を交換し、東洋に関する科学的知識の増進及び普及を計る設立時の会長はエム・フォン・ブラント代理公使で会員の数は”わずか”71名であった。
当時1か月に2回ずつ東京と横浜で交互に会議が行われていたが、横浜の方はゲルマニアクラブの部屋を使用し、東京の方は芝公園の天光堂(院)境内の同会の事務所で会合していた。会員の数は明治31年には255名。
1921年2月に現会長(1940年)のクルト・マイヤ―が会長に。
1930年の夏上海の会員を一地方圏に組織。さらにライプチヒ。ベルリン、ハンブルク、神戸、バダビアに支部が出来る。現在内外人合わせて950名以上となる。

 

1940年時点で名誉会長はオイゲン・オット大使、会長はクルト・マイスナーで他の役員も全員ドイツ人である。戦時中は平河町の同会事務所がドイツ人向けの食糧配給所となった。

 

以上が戦前、戦中の日独文化関係団体の全てである。そしてこれらの組織を中心に戦時中も文化の交流は細々と続いた。

 

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