三田の綱町三井倶楽部(つなまちみついくらぶ)は思わず目を見張るような立派な建物である。1910年、ジョサイア・コンドルの設計で三井グループの賓客接待所として建てられた。以降、関東大震災、第二次世界大戦の空襲を乗り越え、今日に至っている。

 

ここは三井家の提供で戦時中、ドイツのヘルムート・ヴォールタート経済使節団団長の住まいとなっていた。ヴォールタートは1941年4月に経済使節団団長として来日したが、6月にドイツとソ連の間で戦争が始まり実質帰国が不可能となり、そのまま終戦まで日本に滞在することになった。

現在の姿。門も開いているのだが、これ以上先は関係者以外立ち入り禁止で、こんな写真となった。

 

近くにはイタリア大使館もあるが、こちらは戦災で建物は焼けた。


 1943年「独逸公使館員名簿」から館員の住所を見ていくと、大使は「大使館1号館」で、若手を中心に「長井コンパウンド」「山王ホテル」などに住んでいたことが分かる。一方三井倶楽部はヴォールタートのみである。召使などを除けば彼は一人でこの大きな洋館に住んだ。日本側は彼を大使に次ぐナンバー2に位置付けて厚遇したようだ。


ドイツが降伏すると、スターマー駐日大使は館員たちからボイコットされる。その後実質的にドイツ大使館の代表としてアメリカ軍、日本とやり取りをしたのはウォルタートであった。彼は日本降伏の2日後の8月17日、外務省の渋沢信一に書き送っている。占領軍が来る前に届ける必要があった。彼らが来たらこうした通信さえも認められるか分からないからだ。ただし「私信でconfidential」と冒頭に記している。

 

焼けずに残った三井倶楽部は戦後は接収され、「米軍将校クラブ」として利用される。1953年に返還され、以降は三井グループの会員クラブとして利用されている。

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら

 

『第二次世界大戦下の滞日外国人』 
(ドイツ人・スイス人の軽井沢・箱根・神戸)は こちら