ゾルゲ事件は,1941年9月から翌年6月にかけて日本政府の政治や軍事の機密などをソ連に通報した容疑でドイツ人リヒャルト・ゾルゲ,尾崎秀実らを中心とした諜報組織が逮捕された事件である。
逮捕者の中にはリーダーのゾルゲを含め、4人の外国人がいた。
リヒャルト・ゾルゲ(ドイツ) 死刑(1944年11月7日執行)
ブランコ・ド・ヴーケリッチ(ユーゴスタビア) 無期懲役(1945年1月13日獄死)
マックス・クラウゼン(ドイツ) 無期禁錮(1945年10月9日釈放)
アンナ・クラウゼン (フィンランド) 懲役3年(1945年10月7日釈放)

彼らは全員、軽井沢と繫がりのあることが分かった。

 

<リヒャルト・ゾルゲ>


ゾルゲをソ連のスパイとして名高いものにした事例としてはオイギン・オット・ドイツ大使の厚い信頼を得ていたことが挙げられている。筆者はドイツ人のチェンバロ奏者ハーリッヒ=シュナイダー(Eta Harich-Schneider)の自伝『旅する音楽家の証言』(原題ドイツ語で日本語訳は無し)を自ら訳して紹介したが、そこではオット大使の軽井沢避暑旅行に、ゾルゲも同行していることが書かれている。ゾルゲが日本の警察に逮捕されるわずか2か月前のことだ。

 

シュナイダーは来日当初はドイツ大使館に居住させてもらい、オット大使一家は彼女にとても親切に接した。(1941年)5月23日にシュナイダーは大使館を抜け出し、帝国ホテルのバーでゾルゲと落ち合う。日記に「私はもう金持ちで腐敗した人間とは関係を持ちたくない。唯一の良き人間はゾルゲだ」と書いた。腐敗した人間とは大使以下を指していよう。

そして夏の軽井沢で毎年行われるナチス教員同盟の例会で、ピアノの夕べの開催日が8月23日に決まった。日本の大学でドイツ語を教える教員らが毎年避暑地に集まった。大使館、ナチ党による思想統制の意味合いもある。この音楽の夕べにシュナイダーもが出演することになったのは、オット大使夫妻の好意によるものであった。

8月9日、シュナイダーは何故か重い気持ちで軽井沢行きの荷物を作る。
「ゾルゲがいっしょに来て、大使館員フランツ・クラップフ(大使秘書が洒落た車で皆を連れていってくれることが救いだ。もう一人若いドイツ人がクラップフの横に座り、ゾルゲと私は後部座席に座る。」
車列の中にはオット大使の車もあったのでドイツの旗がはためく。途中通過する町や村では若者等が右手を伸ばすドイツ式挨拶をして歓迎した。日本の参戦直前で日独が一番蜜月であった時期である。

「4時に軽井沢に着いた。政治部のフォン・マルヒターラー(一等書記官)が夕食時にあるエピソードを語った。村道でイギリス人の婦人が興奮して彼に話しかけてきた。『英語を話したからといって、私の息子を殴ったドイツの若造を探している!』」 開戦直前、子供の世界にも枢軸、反枢軸国の反目があった。

軽井沢行にゾルゲが加わったのは、大使の厚い信頼を現している。おそらく毎年来ていたのであろう。それにしてもタイミングとしては、 6 月 27 日にモスクワからゾルゲに対して、「わが国と独ソ戦争について、日本政府がいかなる決定を行ったかを知らせよ。また、わが国境方面への軍隊の移動についても知らせよ。」と指令が届いている。ソ連にとっては生死にかかわる情報である。ゾルゲは心ここにあらず、だったのではないか?

ゾルゲの軽井沢行きを予測したからではないが、ちょうどこの年、外事警察は当地での外国語の電話を厳しく制限する。
「なお7月初旬より軽井沢滞在の外国人の電信電話は、使用言語を独語および英語に制限し、特に電話による通信は大公使に限り、在京自国公館と自国語の通話を許したるも、一般外国人の軽井沢町以外に対する通話は日本語に限定したるをもって、防諜上相当効果ありたるものと認められる」

一般外国人は軽井沢から日本語でしか電話がかけられなくなった。信頼の厚いゾルゲならあるいは大使の電話で通話が可能であったかもしれないが、ゾルゲは元々、仲間との重要な情報交換には電話は用いていないようだ。

そして「日曜日、夕食はオット夫人とリヒャルトと自分の3人だけ。彼女に機嫌を損ねないため私は静かにしている。翌月曜日朝6時、リヒャルトは(自分より先に)東京に戻る」

付け加えると彼女は終戦時の住所も軽井沢1075番である。ドイツの大使館関係者は多くが箱根に疎開したが、彼らとは距離を置いたのであろう。(以上筆者の「ドイツ人音楽家エタ・ハーリッヒ=シュナイダーが見たリヒャルト・ソルゲ」より)

 

オット大使の避暑先の別荘は筆者の調査では現在の堀辰雄レーン沿いの軽井沢1415番である。ゾルゲの宿泊所はオット大使邸のゲスト用ベッドルームを使用したとは流石に考えにくいので、向かいのドイツ人向け保養所「ゾンネンシャイン」ではなかろうか。

 

 

<マックス・クラウゼン>

ドイツ人無線技士。妻アンナはフィンランド国籍で1935年11月東京着。41年10月18日、ゾルゲと共に逮捕される。
45年8月15日に終戦を迎え、日本に連合国軍が進駐すると、10月18日にクラウゼン夫妻は釈放された。釈放後夫妻は浦和に住み、やがて軽井沢に引っ越した。しかしアメリカ軍の情報部が彼らに関心を持っていることを知り、翌年日本を離れることにした。

彼は軽井沢ではパウル・ヴェルナー・ヴェネカー元海軍武官を訪ね、打ち明け話をしている。かつて大使館でディナーがあった時、どうやって専門担当官事務所のトイレで機密書類を写真に撮ったかなどを話したそうだ。彼はヴェネガーに冬物のオーバーをねだり、それを持って妻とふたりでソ連に渡った。

 

これはよく考えるとグロテスクな話である。なぜなら戦前クラウゼンとヴェネカーは、いわばスパイする側とされる側だったからだ。
ドイツ人の官吏はみな河口湖、箱根方面に疎開するように日本政府から指示が出ていた。こうしてスターマー大使(オットの後任)、陸軍武官、空軍武官他はそれに従ったが、将官レベルではヴェネカー海軍武官のみが軽井沢に疎開している。ヴェネカーは根っからの反ナチであった。それゆえに戦後のクラウゼン夫妻宅の訪問が実現したのであろう。

ヴェネカーの疎開先は先のドイツ人向け保養所「ゾンネンシャイン」とも近い軽井沢1235番。

<ブランコ・ド・ヴーケリッチ>


ヴーケリッチ最初の結婚で出来た息子ポールは次の様に書いている」

「日本の思い出(1936年~1941年)
快適で楽しかった。住み心地のよい日本の家に住んだ。目黒にあるアメリカンスクールに通う。私の両親とともに日本人好みの野尻(湖)での夏休みを楽しんだ。ティリスト・デンマーク大使(実際は公使)とそのご家族と一緒に、外国人好みの別荘地軽井沢の別荘に滞在した」

デンマーク公使の別荘に滞在するのは、ヴーケリッチ最初の妻エディットがデンマーク人だからである。1945年、ティリスト・デンマーク公使(Lars Pedersen Tillitse)は軽井沢900番に暮らしている。彼は終戦直前の7月初旬に日本を去る。戦時中デンマークはドイツの占領下におかれ、独自の外交も行えなかった。5月にドイツが降伏してすぐさま公使はシベリア鉄道を経由して帰国した。

次のようなエピソードもある。ドイツが敗戦国となると、ドイツ人は国の異なる人々と交流することが禁止された。しかしこれはあまり守られなかった。表通りを歩かなくても、木に覆われた小道を伝って、離れた知人の所に行くことが出来たからだ。こうしてドイツ人のエルクレンツの母親(軽井沢861番)は、デンマーク公使(900番)の妻を訪問することが出来た。

 

ティリスト公使に関して付け加えると、東京ローズの一人アイバ戸栗を、戦時中秘書に雇っている。秘書としてはつたない日本語の彼女だったが、破格の160円/月を支払った。戸栗は16時まで公使館で働き、17時から放送の仕事に携わった。(100円/月)

「戸栗はアメリカの勝利を願っていた」と証言している。

 

見てきたようにゾルゲの関係者はみな軽井沢と縁があった。ただしこれはゾルゲとその仲間の特殊な要因というよりは、当時日本に暮らした欧米人は多くが軽井沢とは何らかの繫がりがあったという事の証左であろう。

 

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