筆者は戦時中欧州に滞在した日本人の手記を集め、情報を収集してきた。

出版された本に加え、私家本、個人の日記などであるが、作曲家倉知緑郎の場合はユニークであった。彼は「僕の思い出ばなし」というタイトルで「ジュネーブ日本人会」の会報に書いていた。今から25年くらい前だが、「こんなのがありますよ」と送っていただいたジュネーブ在住の日本人には今更ながら感謝である。なかなか自分で見つけて入手することは出来ないでしょう。今回ある研究者から問い合わせを受けて読み返し、先日出版した『第二次世界大戦下の欧州邦人(フランス編)』に関連する箇所を見つけた次第。これも先日に続き「どうして出版前に気付かなかったんだろう」と悔やんでも悔やみきれないところがある。


占領下のパリ、小松ふみの日記に次のような記述がある。

「イシ・ロンドル(こちらは倫敦放送局)」のタイトルで日付は無いが、前後から判断すると1944年5月のことだ。

「ラジオ巴里が(中略)日本が同盟国であるが為、ひと役買って1週間に一度は日本の音楽及び文学等の解説の時間がある。田舎芝居の幕が開いて都会人の趣向は如何と、15分間の放送の結果を案ずると、

『東洋の音楽は変わっている。一体にテンポがゆっくりしている』と、親切な巴里人はあまり手厳しい批判は避けてこれくらいに言ってくれる。ベートーヴェンやドビッシーの交響楽に耳慣れている人達に、我々の音楽はまだまだ物足らないのだ」

→ソルボンヌ大学に留学していたその放送を小松は「田舎芝居」とあまり評価してはいないが、フランスの国営ラジオが毎週、日本についての放送を行っていたことが分かる。また1944年5月に小松は初めてフランスの友人に感想を訊ねたとすると、この放送が始まったのは戦争も後期に入ってからという事であろうか?

 

小松に関して付け加えると、日本が米英に参戦して間もない、1942年3月1日”ル・オンド”(Les Ondes)という新聞に「パリの日本人」という記事が載る。その中に2人の記者からマイクを向けられ、ほほ笑むふみ子の写真がある。この記事、マイクを持って取材するのはラジオパリくらいしかないと思うが、いかがだろう。

これまではここまでしか分かっていなかったが先述の「僕の思い出ばなし」に同放送についての記録があった。
「1971年にサイゴンから転勤されて来た北原秀雄(フランス)大使とのお付き合いは忘れられない。リヨンでの語学研修生活を終え、ドイツ軍占領下のパリ大使館に赴任してきた。
ドイツ文化宣伝部はフロイライン・へ―ルマン女史を通じて、北原さんにラジオ・パリのアンテナを一週数時間、日本の文化宣伝用に提供するから何かプランを立てるようにとの申し出があった。
日本大使館はこのプロポーズを承諾して、日本文学の古典と現代の紹介と解説、古い伝説や
お伽噺をドラマ化したものを放送した。太平洋戦争の戦況のニュースも多少あったが、主に古典文化の紹介に重点が置かれた」

→ラジオパリは完全にドイツの管理下に置かれていた。そして倉知が日本に関する放送の音楽を担当していたのだ。


「僕はお伽噺のドラマに伴奏音楽を書く(作曲する)お手伝いをし、テキストは在パリ、旭硝子の支店長で物凄くフランス料理の上手な方のフランス人の奥さんが担当。マダム・ジュヌヴィーユ・モリタは筆も立つし、音楽家でピアノとチェロを弾いた。
そのため、戦後、大勢の日本の音楽留学生がマダム・モリタのアパートに部屋を借りて勉強していた。

森田さんは無口な、しかし感じの良い老人で、しばしば、黙って台所に入っているかと思うと、やがて骨は全部抜き取ってあるが、元の形のまま料理された雛鳥が出てきたりした」

→旭硝子の森田さんとは森田菊次郎のことで拙著の紹介した。森田家の庭園でのティーパーティーの写真もだ。そしてフランス人の妻ジュヌヴィーユを持ち、連合軍が迫ってきて日本人がパリを引き揚げる際には、そこに加わらず残留した。妻はフランス人ゆえ、大使館の留守番として代理連絡事務を引き受ける。彼女が放送のためのフランス語のテキストを作成した。

「ラジオ・パリの日本文化放送は、連合軍がパリを会報すると同時の消滅した。
しかし僕が日本放送の音楽を書いたという記録が残り、僕は戦後しばらくの間、スイスからパリへ行く査証が取れなかった」

 

今回の手記は本当にありがたかった。現在ジュネーブには「ジュネーブ日本倶楽部(JCG)」というのがあるが、これは当時の日本人クラブと同一であろうか?

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