筆者は今年7月に『第二次世界大戦下の欧州邦人(フランス編)』を上梓したが、そこには『パリの日本料理店 牡丹屋をめぐって』という作品も含まれている。

 

「この分野について書かれたものはこれ以上無い」とほぼ断言したものの「実はこんな資料が」とあとから出てくることは多い。今回はこのパリの牡丹屋についてだ。今年7月に標題の本を出版したばかりなので、見つけた嬉しさと、拙著に引用できなかった悲しさが交じっている。

本の名前は『戦争とパリ : ある二人の日本人の青春1935-45年』池村俊郎(2003年)である。題名のある日本人の一人は関口俊吾で彼については私の方が早くホームページで公開している。


さて牡丹屋に関しては次のようなことが分かった。
主人下平敏がフランス人女性と結婚し、その翌年の1929年にクロードが生まれた。
牡丹屋の建物は1階が食堂で、2,3階が旅館で8部屋あった。そして4階に下平一家が住んだ。店には従業員が6人いて、レストランを営業していない時間には日本人相手に床屋もやっていた。
グーグルアースで今も同住所の建物を見るとやはり4階建てだ。

床屋を営んだというのは髪の毛も日本語の通じるところで切ってもらいたいという日本人の要望が強かったのであろう。

女子従業員は和服を着てサービスし、営業中は日本から取り寄せたレコードを蓄音機でかけていた。
「あの当時、テーブルを囲む食事中の客たちに音楽を聞かせるなんて、フランス料理店を含めてどこにもなく、私の父が初めて持ち込んだアイデアだった」とクロードは語る。


これを読んだ伊那に暮らす下平家の親族の一人は音楽好きのDNAは下平家に以来引き継がれていると言う。
50年来のオーディオマニアで「下平敏が育った家の一部をオーデオルームにして今でも楽しんでいます」と、とても立派なオーディオルームの写真を筆者に送ってくれた。

お店はドイツ軍高官にもしばしば利用された。店の周囲の警戒がとりわけ厳しい時があったが、その時はロンメル将軍がお忍びで食事に来ていた。こんなことがあったとは驚きだ。

敗戦時に多くの日本人と共に下平敏のみが日本に帰り故郷に戻ったが、かつての兄との軋轢が続き居場所はなかった。妻がフランス人という事で特別な入国査証をフランスから受け、1949年にパリに戻った。そして翌年同じ場所で牡丹屋を再開した。下平は終戦後再びフランスに戻った最初に日本人の一人だ。『戦後初の渡欧者を求めて』参照。

敏が日本に帰国していた間、クロードと母はふたりきりで戦後の混乱期を生きた。
幸いレストランと自宅のあったビルの居住権を買い上げていたおかげで、それまで宿屋に使った部屋をアパートとして貸し出し、母子の生計を立てた。
同じ時期に「都」というレストランを経営した大森鉄之助は戦後に語っている。
「戦後もまた日本料理屋をやるつもりであったが、建物が取り壊しのため政府から立ち退き命令が出た。鉄之助は余裕があるときに買い取っておかなかったので、取り壊しの際に権利は極めて弱かった」
これは牡丹屋を意識したコメントであろう。


1958年敏が肝臓がんで死去して店の灯が消えると同時に伊那から連れて来た芦部巧が「タカラ」を開いたことは拙著で紹介した。

 

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