天羽英二は戦前イタリア大使を務め、戦時中は内閣情報局総裁を務め、戦後戦犯容疑で拘留される。
彼の日記に終戦直前の軽井沢が登場する。自著「心の糧(戦時下の軽井沢)」では軽井沢に向かう列車についてのみ触れたが、今回は少し深く内容を分析してみた。日記なので分かりにくい部分は適宜補足する。
天羽は疎開先としての別荘を探す目的の訪問であったようだ。

1945年7月15日
朝 上野へ行き、駅長富田と会談。
鈴木九万(すずきくだかつ)と共に軽井沢行き。車中大混雑。
→鈴木は外務省で「敵国居留民関係事務室長」として軽井沢にも深く関わっていた。

この時は天羽の軽井沢訪問の随行か。

夕刻 軽井沢着   永井松三(元駐独大使、貴族院議員)訪問。夫婦、あさ子等等と会談。
雨降り静かなり、鶴屋旅館に泊まる。学習院生徒多数宿泊。勤労奉仕のため。
夜中、警戒警報発令せしも知らず。民雄(天羽の次男)、太平(長男)、(東京に)帰宅せしに会えず残念。
軽井沢への車中、二荒(大日本少年団連盟の副団長、二荒芳徳?)夫婦と同車。
→旧道に現在もある「つるや旅館」は終戦直前まで営業していたことが分かる。一方この頃外国人の疎開者は同旅館にはいなかったようだ。「軽井沢へ疎開した外国人(ホテル編)」参照。
空襲の警戒警報は高崎の警報であろう。天羽は熟睡して気づかなかった。


現在のつるや旅館


7月16日
朝来、鈴木九万と共に別荘検見。後藤隆之助(近衛文麿のブレーン)の借り居る益田別荘(益田孝の貸別荘)は庭広く苔甚だ佳。隣りの(市村)羽左ヱ門(歌舞伎役者)の別荘を見る。
益田のは古く雨漏り。羽左は離れ屋もあり上々。これは後藤使用のつもり。

→15代目同年5月6日に旅行先の長野県湯田中で心筋梗塞のために亡くなっている。


三笠方面の前田郷(小島徹三の借家。天城と共同にて使用方打ち合わせ)別荘を見る。
三笠ホテルに大久保公使訪問。鶴見良三(鶴見祐輔の弟)と会見。鶴見の案内で山下太郎(実業家)別荘(1407番)を見る。
→三笠ホテルには外務省の出張所が開かれていた。
1939年頃の別荘地図では1405番、07番が山下の所有となっている。
三笠ホテルから現在の釜の沢レーンの山下の別荘までは、距離を考えるとガソリン不足にも拘らず車での移動か?


三笠ホテル。実業家山本直良により1906年開業のホテル。

 

以降書籍でお楽しみください。

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