その後ルーツに関しての決定的資料が見つかりました。後半に紹介(2022年8月1日、23年11月)

 

横浜の山下町にある「ザ・ホフブロウ」(THE HOF BRAU) は本場ミュンヘンのホーフブロイハウス(Hofbräuhaus)に名を借りたビアレストランで1947年の創業である。


今は西洋料理店になっているがスパピザ、ジャーマンポテトは創業当初からのメニューとの事だ。自分でもそのスパピザを頼んでみた。船内のような雰囲気の店内はノルウェー人、デザイナーの設計との事。

ジャズバー「ウィンドジャマー」を連想させる?


ただし誰がこのお店を始めたかは、いろいろな書かれ方をしている。「ドイツ系アメリカ人」とか「フィンランド人」などである。そこを今回調べてみた。


ネットの「はまれぽ」はこういう時非常に重宝する。いつも現地で実際に調査をしている。
オーナーの上田フサ子さんにインタビューをしている。彼女の話によれば店の歴史は終戦2年後の1947年に海岸通りに出したのが始まりで、フィンランド人の「コモルアンドコモル」さんという方が初代オーナーだったという。 初代のお店の写真が店内に飾ってある。

 

筆者が引っかかるのは創始者の「コモルアンドコモル」という名前だ。どう考えても間の「アンド」は英語の"And"である。また日本で終戦を迎えたフィンランド人は数名のみで名前も分かっているが、その中にこの名前は無い。

筆者が思い当たるのは横浜に支店を持つハンガリー系多国籍宝石商店Kuhn&Komor(クーンアンドコモル)だ。最初のクーンの部分が誤ってコモルと伝えられたのではないか? ハンガリー人のGeorge Komor(ゲオルゲ・コモル)は数少ない日本で終戦を迎えたハンガリー人である。筆者はすでに「戦時下・横浜の外国人」の中で取り上げている。

つまり彼こそが「ザ・ホフブロウ」の創始者であると考える。

 

筆者はある終戦を日本で迎えたハンガリー人といろいろ情報をやり取りしているので投げかけてみた。彼はドイツ人のパートナー無しにハンガリー人がドイツレストランを開くことは難しいのではとのコメントと共に、ゲオルゲ・コモルの息子は自分と同じセント・ジョセフの卒業生なので、話が聞けるかも知れないとの事であった。その結果を楽しみに待ちたい。

 

その後いくつかの調査の後、関係者の話を総合するとやはり、創業者はハンガリー人のコモルであった。彼は戦後まもなく、シルクホテルの向かいの土地を買い取り、レストラン・バー、ホフブロウを開いた。

その後ノルウェー人の船乗り(おそらく船長)で引退していたハンク・ソレンソンと元ホフブロウの女給さんの日本人妻とで店の名前と権利を買い取った。彼女が日本国籍だったので、名義の変更などもスムースに進んだ。

当時すでに「ホフブロウ」のブランドイメージは高かった。そして最初の店の近くの船員の集まる地区に新しく店を開いた。しかしハンスの死後しばらくして、妻は引退を決め売却した。彼女が売った先がおそらく先に紹介した上田ビルのオーナーである。

筆者が見せていただいた写真にはホーフブロウのバーのカウンターの内側に左からおそらくゲオルゲ・コモル、2人の若い日本人女性、バーテンダーと並んでいる。この女性のどちらかが、後にハンクの妻となったと思われる。

(2023年11月追加)


お店は1980年に現在の場所に移転した。ここは貸しビルを営む上田フサ子さんのビル(上田ビル。次の写真)で「コモルアンドコモル」さんのタイピストで2代目オーナーであった方から1999年、「お店をやらないか?」と譲り受けたのであった。タイピストというのも個人というよりは会社を想起させる。

 

【追記】

神奈川新聞社の発行する「横濱」2005年夏号は「家族の肖像」でコモル・ファミリーを特集している。それによるとジョージ・コモルは第2次世界大戦で会社をたたみ、41年に本牧の家を手放し、箱根の強羅に疎開する。
ジョンは強羅ホテルに移ったセント・ジョセフ・カレッジに通う。
一家は戦後すぐ横浜に戻り、米軍の兵隊相手に日本の雑貨を扱う「コモル&コモル」という店を今のシルクセンター脇に開く。そのお店は夜遅くまで兵隊たちで賑わった。

現オーナーの上田フサ子さんが覚えている「コモルアンドコモル」さんという名称は正しかったのだ。但し人名ではなく、会社の名前であった。雑貨を使う店に並ぶように、海岸通りに初代のホフブロウはあったのだ。(22年8月1日)

そして今のお店の場所は3か所目になる。(23年11月12日)

 

またハンク・ソレンソンがノルウェー人というと、現在も中華街の善隣門近くのBar Norge(バーノルゲ)を思い浮かべる。こちらもノルウェー人の船員が日本にやってきて、日本人女性と結婚し1972年にお店をオープンした。どこか似た話だ。(23年11月12日)


ー--------------------------------


最後に付け加えると上田ビルの隣のインペリアルビルは1930年建築の外国人専用のアパートメントホテルで、今も貸事務所として使用され、山下町の特集番組などではしばしば登場する。よく見るとツィンビルのようなたたずまいだ。インペリアルビルは上田要蔵、常代が施主で今も上田家が管理している。「ザ・ホフブロウ」は横浜を代表する様なビルオーナーの元で経営されていると言える。

 

そしてこのインペリアルビルはドラマのロケでもよく使われる。

23年10月、「うちの弁護士は手がかかる」では主人公の勤める弁護士事務所として登場する。番組最後のテロップではオーナーである「上田ビル」として紹介されている。


 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら