「日本の宣戦布告と横浜の敵国外交官」(こちら)で横浜のアメリカ領事館員が抑留された話を書いたのをきっかけに、横浜開港期からのアメリカ大使館(当時は公使館)の痕跡をたどった。

1853年にペリーが来航して1854年に日米和親条約が結ばれる。日米代表が横浜村の海岸で会見し、開港広場には「日米和親条約締結の地」のパネルがある。
 
また開港資料館の中庭にペリーの艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた「横浜上陸」絵図のパネルがある。前方の「たまくすの木」はこのペリー来航時からあり、1866年の大火で大きな被害を受けたが、今のはその木から新たに芽を吹いたもの。
 
芝公園には「ぺルリ提督の像」がある。(幕府の文書にはペルリと書かれた。)
1953年、東京都が日本開国百年記念祭を開催した際、ペリー提督の出身地であるロードアイランド州ニューポート市に石灯籠を贈り、その返礼として贈られた。若々しい印象だ。
 
初代米国総領事としてタウンゼント・ハリスは、1856年8月21日下田の玉泉寺に臨時の領事館を開く。1859年7月、ハリスは下田より江戸に入り、幕府より貸与された麻布の善福寺に公使館と住居を移す。寺には今も立派な記念碑が残る。
 
7月1日に横浜が開港される。7月4日、横浜の本覚寺に公使館とは別に領事館が開かれる。ドール神奈川領事は幕府が用意した横浜村の領事館を断り、当時繁栄していた神奈川宿の本覚寺を領事館とするよう認めさせた。見晴らしの良い所を選んだようだ。よってこの頃のフランス領事館、イギリス領事館、オランダ領事館とは少し離れたことろだった。
 
この時、山門などが(アメリカ人によって)ペンキで塗られた。そのため日本で初めてペンキ塗装された建造物と言われている。山門の唐獅子にはうっすらとペンキの跡が残るという。そして初の塗装を顕彰し、全国塗装業者組合が建立した合同慰霊碑が建っている。

 
1863年5月、公使館が置かれていた麻布善福寺の庫裏より出火し建物が消失する。これにより公使館は、善福寺から横浜関内の外国人居留地に移転する。横浜本覚寺に置かれていた領事館も、同年横浜居留地に移る。その位置は下の地図の中央あたり、横浜開港資料館の上である。見たところ右下海沿いのオランダ領事館、フランス領事館より狭い。
(横浜開港資料館旧館ホールの地図)
 
1868年に江戸は東京となり、1874年ジョン・ビンガム(John A. Bingham)公使は、横浜の居留地より、築地の外国人居留地に公使館と住居を移す。
その跡地に建てられた聖路加国際病院には、この地に米国公使館があったことを示す記念石が残る。十三星や鷲、盾などアメリカ独立当時のアメリカ合衆国を象徴するデザインが国産の石材に彫られている。
 
横浜山手の97番は現在「アメリカ山公園」である。みなとみらい線「元町・中華街」駅から繋がっている。公園の説明パネルによれば「明治初頭アメリカ公使館ゆかりの地で、戦後はアメリカ軍に接収されたので、この名前が付いた。
アメリカ公使館用地として予定されていたが、当時のアメリカ公使ヴァルケンバーグ(在任1866年1月18日から1869年11月11日)はここは住まずに、山手27番地(現山手女子中高)に自邸を構えた。」とある。しかし見たように公使館は関内に移っている。公使の住まいである公邸予定地であったという事か?
 
1890年、公使館は築地から現在の場所、赤坂に移転する。
1932年に横浜市中区山下町6番地に横浜領事館が建設される。設計はJ.H.モルガン(J.H. Morgan)。現在はホテルモントレ横浜が建つがそのロビーには、ここが元横浜領事館であったことを示すパネルが飾られている。

American Center Japanの「米国大使館の歴史」を参考にしました。写真は全て筆者撮影。
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