<和平勧告> 
 
欧州ではもう戦争は終わった。かれらはもうすべての戦争を終わりにして、戦後の再建に取り組みたかった。そうしたためかスイスでは連合国人、敗戦を迎えたドイツの外交官らが、邦人外交官、銀行家に日本の早期和平を勧告した。この件に関しては、筆者は別の場所で詳しく説明しているので、ここでは触れない。(『スイス和平工作の真実こちら) 
 
笠信太郎も、加瀬俊一公使に向かって、本国に和平の勧告電を打つ事を進めた。五月中旬公使は重い腰を上げ、東郷茂徳外相にあてて、日本の和平を勧告した。しかし内容は弱いもので、東京からも良いとも悪いとも言っては来なかった。よって進展はない。 
 
すると笠は、かつての上司で自分を欧州に送り出してくれた緒方竹虎主筆、終戦当時内閣顧問に、明快な文章で交渉による和平を訴えた。外交専用の暗号文に変え、加瀬公使の許可で外交電扱いで東京に送った。 
 
これは今日、東京飯倉の外交史料館に残っていて、後に笠の評価を高めることになった和平勧告電である。七月九日の事であった。
「三.我方の対策
我方としてもこの機を逸しては、戦いは遂に止まる処知らざるべく、その間ソ連にして欧州戦に用いたる大戦力を、東亜に移送するに至らんか、事態はもはや収拾に難かるべし。 
 
不吉の言を好まざるも、現在の独逸の如き方向に走るの他、無きにあらざるやを、真に恐れる次第なり。(略) 
 
本土上陸戦は、敵としても重大損害を被るは自明なれとも、欧州戦の経験よりすれば、その絶大なる爆撃の力は決して上陸を不可能ならしめず。いったん上陸に成功せんか、悲壮なる戦いは文字どおり婦女子の最後の一人までに及ばん」 
 
それに続けて日本を破滅から救うために和平を勧告する。さらに
「この点当スイスに於いて交渉を開始される事の極めて適当なる事を進言致し置きたし」とした。 
 
笠の行為はこの国で岡本清福陸軍武官、藤村義一海軍顧問補佐官らが、アメリカのダレス機関を通じて交渉に入ろうとしていた努力に対する、側面からの援助であった。最後に海外在留邦人の一人として 
 
「不肖の見る処、欧州に於いて問題を研究観察せる同胞の大部分が密かに抱懐せる念願なりと信ず。ここの海外に在る者の唯一の任務として、敢えてお叱りを覚悟し、ご参考に不肖の確信を開陳、政府におかれ重大決心の一日も早からんことを祈念致す」と締めくくった。 
 
この電報を打った翌日、笠が公使館に出かけると、昨夜遅くまで暗号文に組み替えた電信係の館員が
「笠さん、打ちながらどういうものか涙が出ました」と語った。与謝野参事官は
「きのうの電報はえらい金がかかりました。三万フランかかりましたよ」と語った。 
 
今の価値に換算すれば、二千万円位には相当しようか?スイス公使館も、敗戦によって資金を凍結されるくらいなら、少しでも役立つ事に使ってしまえというところもあって、気前良く対応した。それにしても高すぎるので、与謝野の数字の桁が違っているのかもしれない。
 
しかし日本では解読し平文に直された後「回覧せず」と朱書きされ、電信課で抑えられてしまった。 

日本からの反応のないことで七月二十日、笠は今度は海軍の持つ交信機で、再度日本の海軍省に送った。最後は「われわれはポツダム会談の後の機会を逃すべきではない。この日米和平の黄金の機会ともいえる時は、二度と来ないであろう」と結んだ。内容は前回と少し変えた。新聞人としての面目躍如であった。 
 

<終戦> 

笠は終戦時を回想している。
七月二十六日  とうとうポツダム宣言が出た。日本に無条件降伏の受諾を改めて勧告するものであった。それ以来は、その日本における反響を待って、一日一日が、居ても立ってもおれない気持ちで続いた。日本政府がこれを受諾すれば、スイス公使館を経由してが連合国に伝える事になるはずだったからだ。 
 
八月六日  広島に原爆が落ちたという事は、通信社がすぐに電話で知らせてくれた。物理学に詳しい友人の文学士のC君が、早速かけつけて来て
”そうら、アレですよ。いつもお話していたあれですよ”とせき込んで、いつもの原子核分裂の話をしてくれた日を忘れない。
 
八月八日  ソ連が対日参戦したときは、ちょうどチューリヒ湖のレストランで二、三の新聞記者と集まっていたときだったが、さすがにショックであった。しかしこんどは私がC君に向かって ”そうら、予言の通りだろう”と言った。 
 
八月十日  やっと日本政府は、ポツダム宣言受諾についての最初の申し出を発した。が、肝心の最後の受諾電報はなかなか来なかった。 
 
一日、半日が待ち遠しかった。自分の国の降伏が待ち遠いというのは、まことに怪しからぬ話しであるが、一切はもう明白に決着していたのである。半日伸びればまたどこかの都市で誰かの生命が奪われるのである。(中略) 
 
八月十三日  笠は公使館に寄ると、日本から受諾の電報はまだ来ていないと加瀬公使は悲痛な面持ちであった。その夜笠は、チューリッヒに向かいホテルで一、二の友人と遅くまで語り合った。 
 
翌朝大っぴらに降伏を勧告する新聞電報を、書いて見る気になってしまった。編集局ももう、それをゲラにする事を躊躇しないだろうという想定のもとに。 もう暗号電報などにする必要はないと考えたのであった。
 
八月十四日  スイスナショナルバンクの真ん前にあった、朝日新聞の小さな事務室で、笹本君にそのことを話しておいて、考えをまとめるために、私は湖畔に出た。水際を私は行ったり来たりした。(中略) 
 
事務室に帰ってきてドアを開けると、笹本君が待ってましたとばかりに立ち上った。そして言った言葉が、弾んだ響きを持って、まだ私の耳に残っている。”日本、やりましたよ!たった今”その日のその後のことを私はよく覚えていない。 
 
八月十五日  「長い間皆に苦労をかけた。もう安心して、希望を持て」
打とうと考えていた私の新聞電報は、一日おいて、家族あてのこういう電報に変わっていた。(以上「海外で聞く八月十五日」より) 
 
八月十六日  岡本清福中将がチューリッヒの自宅件事務所で自殺する。かれも積極的にアメリカとの和平の糸口を探り、本国に降伏、和平の決断を具申していた。同盟の堀口は、岡本とずいぶん親密に情報を交換していたが、自身も和平工作に関わっていたかは確認できない。 
 
岡本の死は日本では取り上げられなかったが、スイスの全国紙ノイエ.チューリヒャー.新聞の一面に紹介された。笹本らの住まいから一本湖沿いの通りに、岡本の事務所兼住まいはあった。 
 
笠は戦後、岡本について回想している。
「変わらない人は変わらないな。岡本清福という陸軍少将がいましたね。後で中将になりましたかね。あの人がチューリッヒにいて、それまではいろいろ戦争を心配して、電報を打ったりしていたらしい。負けた年、しばらくしてピストルで死にました。 
 
りっぱな遺言を書いて、きれいに死にました。家の人には遺言は書かず、私などあてに書いていた。それまでに中風にかかっていましたが、病気を気にして死ぬのではないことも書いてあった。態度が変わらなかったな。ただ非常に済まなかったというような気持ちを表現しておったけれども、軍人にもああいう人がいる」 
 
軍人に対しての、笠の珍しく好意的な態度であった。
敗戦後間もない九月十日、表裏二枚だけとなった朝日新聞の一面に早くも「敗戦の祖国に寄す」という掲載が始まり、第三回目として笹本がスイスから書いている。「真の日本へ脱皮、ドイツより明るい将来」という見出しである。 
 
翌日は笠が「人間的理性から、美しい正義日本へ発展」とやや哲学的文章を書いた。日本の新聞は早くも戦後を歩み始めた。 
 
一九四六年一月末、欧州中立国の邦人のために引き揚げ船が用意され、加瀬公使他八十名の邦人がスイスを去った。病気で帰国が出来なかったもののほか「軍人、外交官は困るが民間人は構わない」とのスイス政府の説明で、朝日の三名を含む報道関係者は、帰国船の利用を見送った。壊滅的打撃を受けた、と聞く日本に戻ることにためらいがあったようだ。 
 
他方スイスはあくまで中立国であった。翌年には敗戦国の同盟の堀口と読売の川崎に、再び記者の資格を与えた。新聞の仕事もほとんどなくなり、笹本と田口はチューリッヒで所在無く過ごす。笠は敗戦国民でありながら英国、フランスへの出張なども経験した。 
 

 
<帰国  > 
 
表面上は比較的快適な生活を送っていた残留邦人であったが、敗戦から二年もすると、さすがに誰もが帰国を考えはじめた。しかし日本政府、占領軍、さらには彼らを送り出した新聞社も、ささやかな人数の在スイス邦人の帰国要請など、全く取り上げなかった。 
 
いろいろ帰国方法を考え努力したが、すべてが徒労であった。毎日新聞の特派員であった山本正雄は、一九四七年正月早々、東京の本社より
「帰国の件、船便不足のため米国経由を断られた。そちらで適当な便を探せ」と素っ気無い電報を受け取った。 やがてかれらが気づいたのは 
 
「早期帰国は、一団となって交渉しなければ埒が明かない」ということであった。
そこで笠が実質帰国団長となってスイス当局、米英の出先機関と交渉する。こうして笠が面倒な事を一切引き受け奔走したものの、成果はすぐには出なかった。 
 
報道関係者ら残留邦人は、日本の敗戦と同時に、物価の安い南スイスの片田舎に引っ込んでいだ。長期滞在に備えるためである。 
 
一九四七年一月十五日、公使館に勤務していた石原直憲書記生がこの南スイスで、前途を悲観して自殺する。かれはスイス人(もしくはイタリア人)を夫人としていた。その彼女を日本に連れて帰る自信がなく、さりとてヨーロッパで暮らしてゆく経済的手段も見つからないからであった。 
 
邦人の生活費が、底をつき始めた。それに対して笠は、戦時中からの日本の利益保護国であるスエーデンの公使館に掛け合い、援助を取り付けたのであった。 
 
とうとう笠が見つけ出した帰国船は、一九四七年十二月十五日、北イタリアのゼノア港を出るパナマ船籍の貨物船、サラミス.ビクトリー号であった。敗戦後二年以上が経過した。この時船賃を自前で払えたのはダボスで療養中であった外交官徳永太郎、下枝夫妻と笠だけで、他はスェーデン公使館から借りた金を充当した。 
 
総勢十六人。報道では朝日の笠と田口二郎、読売の川崎、同盟通信の堀口、池上幹徳、毎日の山本正雄。外務省からは病気で帰国の遅れた武川基官補、塩田書記生、そして徳永夫妻であった。さらに民間人ではスイス人を妻とする高木正孝と、ドイツ人を妻とする渡辺護及びかれらの子供二人が加わった。 
 
高木はドイツに留学していたものの、田口同様に山登りが好きで、終戦近くにスイスに移住した。ベルン陸軍武官室に職場を見つけたからだ。そしてそこで働くタイピストと、恋仲になる。アルピニストあこがれの、グリンデルワルト出身の女性であった。
結婚の相談を受けた笠は、即座に反対した。この女性の性格の冷たさを見抜いていたからである。高木の父親は男爵で、名家である。その実家も強く反対したが、二人は結婚にたどり着く。 
 
日本で高木夫人は、駐留軍に働き口を見つけた。知的な魅力を備えたこの奥さんのお陰で、二人は駐留軍のパーティーに、毎晩のように参加するようになった。当時には珍しい、立派な身なりをしていたという。そして幸せそうであった。 
 
しかしその後破局を迎え、彼女はスイスに戻った。高木は神戸大学の教授となり、南太平洋で研究調査中に、謎の死を遂げる。調査船から忽然と姿を消し、二度と姿を現さなかった。 
 
さまざまな想いを持つ十六名を乗せた帰国船は、ジブラルタル海峡から大西洋に出た。海は荒れてはいなかった。しかし片舷に、イタリアで没収した鉄の船を積んでいるため、ひどい揺れかたをした。バケツが甲板を行き来していた。二段ベッドの上から転げ落ち、夫に危うく助けられた外交官夫人もいた。
 
日本に向かう笠は一九四八年一月二十六日、同僚香月にまた手紙を書いた。
「一昨日桑出帆、ホノルルに向かっている。マニラ、香港と大回りして二月二十日横浜着の予定、愈々嵐吹きすさぶ日本も近いが、今の日本の東西もわきまえぬ自分となっている事と思われる」 
 

 
<その後> 
 
笹本は笠、田口とは帰国を共にしなかった。そして別ルートでやはり一九四八年日本に帰った。妻イヴォンヌと乳飲み子を残したままであった。 
 
いきなり占領下の窮屈な日本が笹本には耐えられなくなった。ジャーナリストとして頭の中のヨーロッパの知識は、数ヶ月もすると使い物にならないと感じた。そしてフランスに住む妻の親戚筋の世話で、同国に向かう。一九五〇年二月の事であった。 
 
日本は占領下である。パスポートはなくフランス政府の護身証による渡欧であった。それから笹本は欧州を終の住処と決めたのであった。それからドイツのボンとチューリッヒ近郊の村デューベンドルフの二箇所を拠点として、最近に至るまで数多くの欧州関係の書物を書く。 
 
一九九一年六月二十七日の朝日新聞には「滞欧四十年の目で見た日本」の見出しで、久々の日本の印象を書いている。時はバブルの真っ盛り
「その昔、ある新聞のベルリン、チューリヒ特派員をつとめた彼が、よわい七十五歳にして億万長者の端にもぐり込んだ、という実話を生んだのは、もっぱらY夫人の功だそうだ」とかつての仲間について触れた。 
 
これは頭文字から判断すると、田口の事ではなく毎日の特派員であった山本正雄であろう。 
 
一九九五年夏、筆者は笹本のデューベンドルフのアパートを探し出し、訪ねてみた。すると郵便ポストには郵便、チラシがあふれていて、数ヶ月は不在の様子だ。最後はほとんどボンにいたのであろう。
 
笠は一九六八年に亡くなる。鎌倉円覚寺に眠る。墓もユニークで、大きなカエルのような石が、でんと鎮座しているだけだ。笹本が雑誌世界に追悼文を寄せた。 
 
「わたくしが朝日新聞ベルリン支局からチューリッヒ支局に移ったのは一九四五年一月上旬で、それから笠さんの帰国の日まで二年十ヶ月の間、わたくしは笠さんの身近で暮らす事になった。 
 
それは、ヨーロッパの混乱、日本の敗戦、という風に世界が激動した時期だったが、こういうときに笠さんのような鋭い観察者、広い展望の持ち主から有望なアドヴァイスを受けることができたのは、当時チューリッヒ支局の同僚だった田口二郎君やわたくしにとって大きな幸運だった。しかもこの幸運は仕事以外に、広く”人生如何に生くべきか”という領域にもおよんだ。 
 
わたくしたちは、笠さんを、単なる仕事上での大先輩として尊敬しただけではなく、”人生の教師”として深く傾倒したといった方が正しい。」 
 
最後に田口は湘南の藤沢に居を構え、日本に留まった。笹本が幾度か引用した「私のスイス案内」の末尾で、田口のスイスに対する造詣の深さを賞賛している。 
 
「(前略)日本人でも、笠信太郎氏や田口二郎氏の二人は、僕にとってとりわけかけがいのない人物である。笠氏についてはおそらくよく知られてもいるだろうが、田口氏が日本でも有数のスイス通であることはあまり知られてはいないのではないだろうか。(中略) 
 
スイス人の女性と結婚した彼のスイス研究の高さと深さは非凡なものといえる」
人を介して聞くと、氏は晩年の数年間は記憶もあいまいになっているらしいとのことであった。 
 
その後、笹本と田口がそろって息を引き取るのは、冒頭に書いたように一九九八年九月のことであった。欧州の没落ともいえる様々な事件を体験してきた。荒れ狂う日本を、中立国家ら客観的に見ることが出来る立場にあった数少ない証人でもある。
「二人の同時の死は単なる偶然」と言いきることは誰も出来ないであろう。
                             
終わり 
 
主な参考文献
笠信太郎全集
回想のヤング尾根  田口二郎  世界山岳全集第十二巻、一九六〇年より
天羽英二日記資料
スイス時代の笠さん  (笹本駿二)世界  一九六八年二月号
海外で聞く八月十五日 (笠信太郎)世界  一九五一年八月号
海外終戦秘話  (笠信太郎) 自由 一九六三年九月号
私のスイス案内  笹本駿二  岩波書店  一九九一年
第二次世界大戦下のヨーロッパ  岩波書店  一九七〇年
朝日新聞  一九三九年から一九四五年
スイス公文書館史料
外務省外交史料館史料
 

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