<笠信太郎> 
 
終戦時スイスには実はもう一人、朝日新聞の関係者がベルンにいた。すでに何度か登場した笠信太郎である。一九〇〇年生まれの笠は二人よりも十歳ほど年上で、本社から派遣された、新聞人としても大先輩であった。  
 
笠は大学を卒業して、経済問題を専門とする大原社会研究所に属し、その後朝日新聞に入社する。ゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実とも交友関係があった。 
 
中国視察後に書いた記事がもとで、日本の警察ににらまれるようになった。同社主筆の緒方竹虎の計らいで欧州出張の名目で、日本を脱出し、ドイツに向かった。一九四一年一月の事である。一年間の予定であったが、戦争の勃発で帰国の道が閉ざされ、そのままベルリンの朝日の事務所を手伝う。 
 
ベルリン駐在中は、新聞の仕事は専ら特派員である守山義雄に任せ、自分は欧州各国を精力的に見てまわる。一九四三年一月次いで五月と、それぞれ数週間にわたって、スイスにも滞在している。同国は報道陣の入国に厳しかったので、特派員としてではなく、特殊任務の外交官という名目であった。よって大っぴらに戦時下のスイスについて書くことも出来ない。 
 
笠の一月の出張中、東部戦線ではスターリングラードの戦いで、ドイツ軍はパウルス将軍以下九万一千名が、ソ連の捕虜となった。その上すでに同地で死亡したものは、十二万名にも及んでいた。スイスではこの知らせを聞いて、ドイツ軍の将来について、悲観的に考えるのが一般的となった。それはさまざまなマスコミに目を通している田口、笠にも入ってきた。 
 
次の五月の笠の出張の際に、笹本、田口とグリンデルワルトに向かったのであった。そして先に紹介した「大勢は決まった」という見解となったのであった。 
 
六月にはベルリンに戻るが、ドイツでは同国に心酔していた大島浩大使との折り合いが悪い。夏には、枢軸の勝利を確信している純朴な留学生に向かって「枢軸側はこの戦争に負けるね」と言い放つ。そしてその後間のなくして、スイスに移り住む。出張中に決心したのであろう。この異動を認めた日本の朝日新聞本社も度量が大きかったと言えよう。 
 
本人は十月の事と書いているが、九月二十三日付けでスイスから日本に残る妻初恵にあてた手紙には
「この(九月)十三日、飛行機でスイスに来た。もう一度ドイツに旅行的に行くかもしれぬが、大体、このスイスが僕の本拠になりそうだ。ベルンに常駐するが、チューリッヒでもジュネーブでも汽車で二時間。スイスに来る事は前からの計画で、それが実現したわけだ。何だか突然、日本に帰れそうな気がしている。 
 
然し、中々むつかしいようだ。お互いに気を強く持ち、しっかり歩いていかねばならぬ。ここに来た以上は、ここから一週一回は、ハガキか手紙を必ず出すから、せめて手紙で慰めて貰いたい」とあり、入国日付を九月十三日と特定することが出来る。
 
笠が住まいを見つけたリーベフェルトは、ベルン郊外の村であった。モミや常緑樹の雑木林を背景にして、麦畑や林檎畑が伸びやかに広がっている。冷たいモヤの流れる高原のような土地に、清潔な住居が点々と静かなたたずまいを見せていた。
 
田口の文章を借りる。 
「笠さんはいばらくしてからベルン市郊外に、いくつかの寝室もある立派な邸宅に居をかまえられた。家具調度品も十二分に備え、炉辺には薪を山と積み、地下倉にはぶどう酒を何ダースも置いて、スイスでの長期生活への構えを示された」 
 
田口は週末になるとチューリッヒからこの住居を訪れ、酒を飲みながら先輩である笠に議論を吹きかけた。そして他社の報道関係者も、同様であった。笠は客に気を使い、自分で包丁を握って川魚の刺し身、うなぎの蒲焼きなどでもてなした。こうして
 
「笠の住居は、公使館に対する野党の本陣のような雰囲気を持った」と田口は回想する。
一九四三年八月、外務省は欧州における情報網の拡充を決めた。しかしそのための人材を新たに派遣する事は出来ない。重光外相名で、欧州各国に向けて、民間人で登用できそうな人物を挙げるよう指示した。スイスからは阪本公使が早速 
 
「重光外相宛  在欧情報網拡充の件  当国在留邦人は新聞記者四名、銀行員一名、留学生四名程度なるが右の内には適任者なし」と返事する。 
 
外交官を除くと民間人は、開戦直後同様ほとんど居なかった。それ故田口のように滞在許可を所持するだけで、特派員に任命されたわけだ。報道の四人はすでに紹介したが同盟の堀口瑞典は作家堀口大学の弟で、父親が外交官、母親はスエーデン人という異色な人物である。瑞典はスエーデンの当て字だ。 
 
仲間はかれを「ずいてん」と呼んだ。しかも婦人はアメリカ人で、アメリカに滞在しているとスイス当局に申告している。写真を見ると、堀口は浅黒い顔に八の字ひげを生やし、いかにも日本人離れした顔つきである。 
 
この時トルコの栗原大使も重光外相宛に、同じ件で書き送っている。
「当館留学生及び雇中には該当者無く、在留邦人としては小田同盟、笹本朝日の特派員のみ」と笹本の名前が登場する。ドイツを除くと欧州には、日本で考えるほど邦人は残っていなかった。
 

<再婚>
 
欧州を転々とする笹本は、一九四三年十月今度はトルコからベルリンに転勤となる。報道にとって中立国トルコの重要性は高くなかった。時期は笠がスイスに去ったのと入れ違いであった。
 
外務省の外交史料館の記録によれば、笹本はベルリン赴任直後の一九四三年十一月四日、日本に残したヒサエ夫人と協議離婚する。おそらく笹本は離婚届にサインをして欧州に旅立ち、この時になって妻が応じたのであろう。これも本人は回想では触れてないが。笹本は私生活も大分進歩的であったようだ。
 
翌年の五月十日、ベルリンの徳永太郎総領事は重光葵外相に宛てて電報を送る。それは
「在当地朝日新聞社員、元外務書記生笹本駿二より、ドイツ人との結婚につきドイツ側に許可申請の必要上、両親の出生、並びに結婚能力の有無(例えば前妻との離婚手続き完了の有無)等調査の上、連絡を乞う」という内容であった。
 
ドイツは日本とは同盟関係といいながらも、非アーリア人である日本人との結婚は容易に認めなかった。(これに関しては「ベルリン日本人会と欧州戦争」にて触れているので、興味のある方はそちらを参照ください)こちら
 
先に述べたように離婚は成立している。こうして笹本はザクセン州出身のイヴォンヌ ビュルガと結婚をすることとなった。日本の外務省に提出した婚姻届には、証人として朝日のベルリン駐在員である守山義雄、山脇亀夫の二人がサインをして、赤い朱肉を使って拇印を押した。付け加えればこの書類の原本が外務省に残っているのは貴重なことだ。ほぼ途絶した戦争末期の日欧間を、相当な苦労で日本に届けられたであろう。
 

 
<朝日特派員網> 
 
日本が参戦して三年目の一九四四年一月三十一日から朝日新聞に、ある連載が始まる。
「迫る欧州決戦の鼓動  本社海外特派員誌上座談会」と称して、朝日の世界各地に駐在する特派員から欧州戦争の見通しを電話で取り集めた。 
 
連合国から締め出され、枢軸国と中立国だけではあるが、戦時下の朝日の組織力の最後の結集であった。ドイツの底力を知らしめようという企図ではあるが、なかなか興味深い見解が紹介されている。 
 
一回目は「敵の戦略、東部戦線」として今井特派員(ブエノスアイレス)から始まり、茂木(リスボン)、畑中(モスクワ)、守山(ベルリン)、渡辺(ストックホルム)と顔写真と共に現地の状況が紹介された。付け加えれば東部戦線に関し、両当事国であるドイツとソ連それぞれに特派員を置いているのは、日ソ中立条約が存在している日本くらいであった。 
 
かれらは全て本社から派遣された特派員であった。写真を見ると、全員髪を後ろに撫で付け、丸めがねの典型的な戦前の秀才タイプである。ところがかれら続いて最後に登場する現地採用の田口だけは、髪がふわりと盛り上がり、洗練された現代人風の風貌である。 
 
翌二月一日は連合国の「第二戦線」がテーマであった。新聞は噂される米英の大反撃について
「問題は米英が何時どこから(上陸)という事になる。そうしてこれこそ緊迫する欧州戦局のヤマだ」と書いて各地での観測を紹介する。田口は大いに発言する。 
 
「反枢軸軍の欧州侵攻の時期は目下、反枢軸が行っているドイツの輸送網に対する積極的な爆撃が行われた後、恐らく二月中旬からしだいに実現性を帯びてくるだろう。 
 
しかしその侵攻作戦も東部戦線の動きと空爆の効果という二つの要因次第で、最も心理的効果があがる時期を見計らって行われるだろう。 
 
だから例えば第一の要因である東部戦線が、もし赤軍に非常に有利に決定的な展開を見せる場合は、侵攻作戦も急激に促進されよう。 
 
侵攻作戦の主要舞台は欧州西岸とバルカンであるが、牽制作戦としては南仏やノルウェーへの同時上陸も期待されている。独軍は数箇所で、ダンケルクの二の舞をやらしてやろうと準備おさおさ怠りない。然も独軍とっておきの秘密兵器に物見せようとしているのだ」と、おそらくスイスのマスコミの論調などを参考に、連合国の侵攻を予想した。 
 
続く四日は「バルカン作戦」が取り上げられた。そして元イスタンブール特派員としてベルリンの笹本がバルカン情勢を紹介した。 
 
連載五回目の七日は「独の必勝体制」であった。そして締めくくりは欧州特派員の重鎮、スイスの笠であった。 本社  中立国から冷静に見た現戦局下の印象を聞きたい。
「笠特派員 ー現段階における全欧州情勢を、最終的に決定するものは次の如き諸点であろう。ソ連国境問題とプラウダ紙の英独和平暴露は、ソ連が英国に投じた爆弾であり、この二つの事件によってソ連と英国の亀裂は従来の何ものにも増して今や増大しつつあり、この結果英国が、モスクワ会談からテヘラン会談に至る間に行った慎重なる一連の工作が、空中に吹っ飛んだ感がある。 
 
ソ連は今や自己の仮面をはずそうととしているが、これは英国が第二戦線に対して、臆病風の弱腰を示しているからだ。 
 
ドイツが若しこの英ソ間の亀裂に乗じ、結成された第二戦線に対し大打撃を与えるようなことになれば、ソ連と英国の均衡状態は一撃の下に終息するであろう。これはドイツにとって絶好の機会であり、従って第二戦線こそかえってドイツに有利に展開する機会となるであろう」 
 
新聞紙上で笠、笹本、田口の三名が一堂に会した。
笠は、間もなく行われるであろう米英の大陸侵攻作戦が水際で撃退されたら、ドイツに戦局は有利に進むであろうと書いた。冷静に読めば、逆ならドイツはもう駄目であるとも取れる文章であった。しかし繰り返すが言論の自由のない時代のことであるので、内容についての検証はあまり意味を持たない。 
 

 
<ノルマンジー上陸> 
 
一九四四年五月一日笠は中学、大学の同窓で大阪朝日の編集局長を勤めている友人香月保に手紙を書いている。枢軸側の劣勢で、日欧の手紙の往来すら難しい時代である。 
 
「今日この地を立ち、日本へ帰る筈の人(外務省のクーリエという名義の人で加賀という)があるので、着くか着かぬか知らぬが、取り急ぎ一筆してみる。この二、三日前の東京との電話で、貴兄が大阪に行かれたことを知った。 
 
お目出度う。社内の事情など凡そこちらには分からぬが、好調であることを祈る他はない。日本の事情も、どうもこの地で想像している以上のことではないかという気がするし、仕事も中々大変だろう。(中略) 
 
家族達は今年中には帰って貰い度いと嘆願しているが、その都度”出来るだけ早く帰るようにする”という返事で濁している次第だ。ひとつは僕が今、何とも形のつかぬような状態で欧州に居ることが響いていると思う。 
 
実際は形はついて居り、自分自身には十分その他の仕事と生活を充実させているつもりだが、外形がはっきりしないという意味で、女子供や素人にはわかりにくいのだろう。支店長とか武官とか、はっきりしていれば素人判りがよく、如何にも重大任務のように見えるが、僕のこの地位では家族のもの達には風来坊のように映るのだろう。 
 
実は相当勉強している積りだが。その点では、この三ヶ年半、大分進んだような気がしているし、それを許して置いてくれる社の寛大さには実のところ、有難いと思っている」 
 
特派員ではなく、”特別任務の公使館員”の肩書きで入国した笠は、かれをよく知らない在留邦人が
「笠さんは何をしているのだろう。このご時勢に気楽なものだ」と考えている事を気にしていた。また日本に残した自分の家族にも負い目を持ったようだ。 
 
さらに手紙は朝日の欧州特派員の質に触れている。
「時間に追われてこの手紙には何も書けないが、欧州における社の特派員諸君は少なくとも他社よりは大体よいようだ。然し”日々”(今の毎日ー筆者)の方がやや組織がよくはないかと思う」 
 
欧州情勢については、検閲を意識しての筆であろうが
「英米の第二戦線の掛け声が昨年暮以来、却ってドイツを救った気がする。ドイツは党のみが指導する特殊の政治組織ーそのよしあしは別ーで、持ちこたえている。見通しを別問題としてあくまで戦うほかに道はないという事情。 
 
この一語につきる。何でもよいから、今はドイツが出来るかぎり頑張ってくれる事を望んでいる次第である」と、ドイツが持ちこたえる事を期待すると、無難に書いた。
 
六月六日、米英の大部隊がフランス西海岸に大挙して上陸した。連合軍の大反攻の開始である。世界はまだ情勢がつかめない。上陸は成功したのか?朝日新聞本社はスイスの田口を電話口に呼び出した。六月七日朝刊の一面に載った上陸作戦の第一報は次の様だ。 
 
本社「第二戦線を開始したね」
田口特派員「いよいよやった。報道によりますと今朝の六時ですがセーヌ河口ルアーブルからノルマンディ半島にわたる五十キロ、、、」
本社「独側は盛んに報道してるか?]
田口特派員「独は敵の上陸作戦の戦況を冷静に報告しているだけで、あまり積極的な見通しなどは全然していない。、、、」 
 
本社「スイスあたりは騒いでいるか」
田口特派員「スイス新聞は号外を出した。しかし記事の標題のつけ方は第二戦線とか、インヴェージョン(侵攻作戦)という字を使わないで、、、
何しろ今朝始まったばかりで現在のところ戦局がどう発展するかも判らないので、固唾をのんでひたすら戦局の推移を注目しているところだ」 
 
新聞と背後の日本政府は、ドイツ側の冷静な対応を書くことで、今回の上陸作戦の国民に矮小化させ伝えようとした。 戦後五十年経って、田口はこの時のことを聞かれて 
 
「いつ来るかが問題で、驚きはなかった。英米が上陸をあまり先に延ばすと、戦後の欧州での主導権をソ連にとられると感じていた」と同じ朝日新聞で回想した。 
 
さらに中立国であるから、日本の戦況もみんな入ってきた。開戦半年後のミッドウェー海戦の最初の敗北もであった。そういう情報を田口は「ロイター電による」という形で全部、東京に報告したという。もちろん日本には不利な情報は、記事にならない。 
 
そして連合国側の報道関係者もいるこの国では、原稿を電報で送るために郵便局に行くと、英国や米国の記者とはち合わせする。そんな時は、互いに片手を軽く上げてあいさつした。しかし会話はしなかったと当時の話を披露した。 
 
また太平洋戦争直前に日本は計四十九回線の国際電信と、無線電話を持っていたが、開戦とともに次々途絶していく。 
 
逓信省外務局に勤務していた田村清の記憶では、この上陸作戦が敢行されたとき、生きていた電話回線は、ドイツのベルリンを除くとスイスとスエーデンくらいであったという。
 


<再会>
 
ベルリンはこの頃から連合国の空襲の標的となり、空襲が続き、日に日に首都は焼け落ちていく。 翌年七月二十日には、国防軍将校によるヒトラー暗殺計画が実行に移される。
 
同じく七月、スイスでは阪本瑞男公使が病死する。スイスで聞く枢軸の不利な情報が、公使の体を虫食んだ。ヒトラー暗殺事件の五日後、与謝野秀代理公使はスイスでの一般的見解ということで 
 
「ヒトラーは今回の事件をきっかけに反ナチ分子を一掃するであろう。しかしながらこの暗殺計画はドイツが終わりに近づいた事を意味し、その破滅は時間の問題である」と報告した。笠ら報道関係者だけでなく、外交官も中立国では、ドイツの運命を悟った。 
 
笠はこの時、ドイツはあと一ヶ月との予想を立てた。しかしこれは冬のドイツのアンデンヌの反攻で先に延ばされ、予想は外れた形となる。 
 
日本でも、こうした情報を受け、外務省も軍部もドイツの将来にいよいよ見切りをつけはじめる。そして中立国スイス、スエーデンに、一部の機能、人材を疎開させ始めた。 
 
七月十九日与謝野秀代理公使はチューリッヒに総領事館を新設する事に関して、重光外務大臣に意見を送っている。 
 
利点としてはスイス最大の都市で、同国の経済界新聞界当の有力者は大部分がいる。他方危惧する点としては、在留邦人を保護するためとするものの、邦人は五名だけで、そのうち四名は新聞記者であるという事であった。これも先に紹介したように、外交官の避難が目的であった。 
 
朝日は大所帯のベルリンから笹本、茂木政をベルンに、衣奈多喜男をストックホルムに転出させようとした、しかしスイスに入れたのは笹本だけであった。スイスもビザを制限したからだ。 
 
一九四五年一月二日の夜、空襲警報の鳴り響く中を、笹本を乗せたチューリッヒ行きの列車はベルリンを離れた。米英軍が西から、ソ連軍が東から進出し、ドイツを南北に分断しようとしている。ベルリンとスイスを結ぶ列車もいつまで運行されるかは、もうだれも判らない。自著から紹介する。 
 
「翌朝のひる前チューリッヒ駅に降りたわたくしを、笠さんとT君(田口の事)とが迎えてくれた。 ”ここまで来ればもう大丈夫だよ”まるで政治亡命者でも迎えるような笠さんの言葉だった。 
 
湖岸のホテルでくつろぎ、久し振りのチューリッヒ湖を眺めたとき、わたくしも思わずホッとした。そして”ふり出し”に戻ってきた安らかさが身に沁みわたった。 
 
スイスはわたくしにとって”ふり出し”であると同時に”ふるさと”でもあり、安息の場所でもあった。さらにまた、変りはてたヨーロッパの中での、本来のあるべきヨーロッパ、戦乱の荒浪のたけり狂う中にあって、平和と自由を守る孤島でもあった。」 
 
こうして笹本と田口はスイスで再び、共に働くこととなった。笹本の中でスイスは自分の身を守る、母なるふるさとに昇華している。 
 
三人はよく旧市街の落ち着いた「ビダー」(お羊座の意)というバーを訪れた。静かなその店は、特に笠が好きであったと田口が書いている。このバーは一九九十年代初期まで、ジャズの生演奏を聞かせる洒落た店として残っていたが、今はない。 
 
アメリカがスイスに対し、枢軸国要人の避難場所を提供していると非難する。一九四五年三月十二日、チューリッヒの警察は、日本人が増えていると外務省からの指摘を受けて、同地の全滞在者を洗い出すと、総勢十八名であった。ほとんどが一年以内の新参ものであった。彼らの作成したリストには勿論二人の名前もある。 
 
笹本駿二
一九一二年一月十一日生まれ  妻イボンヌ一九一二年十二月十四日生まれ  住所ミュールバッハ通り二十八   チューリッヒ 八 
夫妻は一九四五年一月四/六日にベルリンから移転  笹本は日本の朝日新聞に勤務  事務所はボルゼン通り十八番で責任者は田口二郎  秘書としてジーン.リープマン博士夫人が勤務 
 
田口二郎 
一九一三年二年十四日生まれ  独身  住所ミュールバッハ通り二十八
一九四ニ年一月三十日ベルンから移転。
かれはベルンで死亡事故のあった田口一郎の弟。田口二郎は朝日新聞の事務所を運営している。 
 
笹本と田口は同じアパートに住んだ。そこはチューリッヒ湖に近い一等地で、ベランダからは市内のフラウミュンスター寺院の尖塔が遠望された。 
 
また朝日のほかに同盟通信社が三名、毎日新聞が一名、読売一名と各社ドイツの敗戦対策としてスイスに配置された。領事館が出来て、それを口実に四人の外交官がドイツとスエーデンから チューリッヒにやって来た。
 
陸軍の岡本清福少将は、ベルンを避けてすでに一年以上の滞在であった。日銀関係者も三名がベルリンから移動してきた。そのほか変り種には柔道の師範一人、留学生三名で計十八名であった。 
 
同時にスイス全体では邦人は、八十名近くにもなった。ほとんどがドイツからの避難者であった。連合国の非難を配慮しながら、スイスが日本に対し与えた最大の枠であった。 
 
四月に入るとソ連軍のベルリン総攻撃が始まる。ドイツはもう抵抗らしい抵抗も出来ない。そのドイツを破滅まで率いてきたヒトラーが四月三十日、地下壕で自殺を遂げる。 
 
スイスの代表的新聞であるノイエ.チューリヒャー新聞のブレッチア主筆は、論評のなかでヒトラーの死について
「まるで野良犬のように、ころりと死んでいった。人類の禍であったことなど、何のかかわりもないように。しかしまさにそれ故に野良犬の死と異なるところがないのだ」と簡潔に書いた。 
 
スイス人はもうヒトラーについて多くを語りたくない心境であった。五月二日、ベルリンが陥落し、同月七日ドイツは降伏した。九日、停戦が発効する。チューリッヒ中の教会が平和の鐘を鳴らした。春の盛りのスイスの空は明るく、市民の表情は喜びに溢れていた。そんな中、日本人だけが例外であった。太平洋で見込みのない戦いを続けていたからだ。 
 
しかしこの国で、もう日本は問題にされなかった。スイス人にとっても、ヨーロッパ人にとっても、第二次世界大戦はヨーロッパの戦争であった。日本人はドイツの同盟国という事でこれまでは、相手にされていた。笹本も含め在留邦人は、ヨーロッパでの戦争とアジアの戦争に強い連帯性を抱いていたが、それは幻想であった。 
 
田口の後の回想に寄ればドイツが降伏した直後、連合国の記者たちは集会を開き、田口も招かれたという。
「握手はしなかった。まだ太平洋では日本が戦っているんだから」と述べている。
第三部以上 
 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら

本編に関連する書籍「第二次世界大戦下の欧州邦人(ドイツ・スイス編) 」はこちら