<田口二郎>  
 
もう一人の主役である田口二郎の名前が、天羽の最初に日記に登場するのは開戦直後の九月十一日のことだ。笹本より一年若い一九一三年生まれであるから、この時二十六歳である。  

「田口一郎、二郎兄弟グリンデルワルド滞在(兄東京海上  弟日本公館  父八郎井爪知人  一郎は久保正一友人  )来訪  館嘱託として滞在のことにする」 
実は田口二郎には二歳年上の兄一郎がいた。二人はそろって九月二十日から天羽の元、公使館で手伝いを始めた。  
 
田口兄弟の父親である八郎は筆者の調べたところでは、鉄鋼で財を成した人物であったらしい。よって金銭には何の不自由もなかったのであろう。まずイギリスに留学に出した。  
 
スイスの山にあこがれる二人は、夏休みを利用して留学先のイギリスからドーバー海峡を渡り、スイスアルプスの中心地グリンデルワルトに滞在していた。するとドイツと英国は交戦状態となり、帰国が難しくなった。そこで公使館員として雇われ、そのままベルンに住む事となる。そして二人は日本に戻り、徴兵に取られることもなかった。  
 
すでに公使館勤めをしていた笹本はノンキャリア、田口兄弟は現地採用と似通った環境で、かれらは最初から意気投合したようだ。  
 
この年ベルンに初雪が降ったのは十月二十六日であった。山国の冬は早い。 
「十月二十九日(日)零度に近し。浄雪グルテンに積む。田口一郎、二郎兄弟早速グリンデルワルト行き」(天羽日記)  
 
兄弟は週末のたびにアルプス地方に出かけたという。ここではそうした二人の山好きを裏付けている。ベルンはその足場として申し分ない。 
「十月三十日  午後二時  田口八郎紐育(ニューヨークー筆者)より電話  先日電報せし子供二人(一郎、二郎)の身上の件」 
この電話から推測できるのは、二人の公使館勤めは、父親の天羽公使への口添えで実現したということだ。  
 
また欧州の開戦と時を同じくして、陸軍と海軍も駐在員を置きはじめる。スイスが情報収集の拠点として、重要度を増したからだ。そして天羽の話し相手は専ら公使館のキャリア組である塚本と、赴任したばかりの陸軍の赤松、海軍の山田であった。田口、笹本はまだ若かった。  
 
スイスの邦人の代表であった天羽は、間もなくイタリア大使に栄転する。十一月十四日、在留民一同に見送られ、天羽は車でミラノを目指す。出発に際し、在留民、館員一同が来邸し、記念写真を撮った。なおその時の写真は、憲政資料館の「天羽英二」ファイルに残っていることを筆者は発見した。 田口兄弟は確認できた。笹本も写っているはずである。 
 
「遊びに来なさい」との天羽の言葉に甘えて、笹本と田口兄弟は早速ローマを訪問する。二十五日のことだ。
 
「ローマは、ベルリンと打って変わって賑やかで、陽気で活気に満ちていた。戦争に参加せず、中立を守ったイタリアが、これからどう動くかが、世界中の注目を集めていた。そのためか、ローマには、英仏はもちろんアメリカからもウィンクが送られ、外交界もなかなか活発だった」と笹本は感想を述べている。 
 

 
<報道関係者>  
 
欧州での戦争勃発と共に、報道の世界でも中立国の重要性が増す。枢軸側のみならず、米英側の情報も手に入るからだ。そこで日本の新聞社は各社ともスイスに特派員を送ろうとするが、スイスが許可しない。  
 
ベルンに出張中の石山慶治郎特派員の報告が、十月二十四日付けの朝日新聞に出ている。 
「独仏開戦以来、戒厳令を敷いたこの国は、各国新聞記者の入国を許さない。先の大戦当時、各国スパイの有象無象が記者となってワンサと入り込み、手を焼いたからだ」 
石山自身もベルンに出張という事で、結局長期滞在は認められない。  
 
また一九四〇年一月二十二日、柳井恒夫ジュネーブ総領事は有田八郎外務大臣にあて 
「同盟本田特派員当地常駐方ついては、まだスイス官憲側の同意を取付けるを得ず。之がため従来同盟特派員の名義を以ってせる、特情電も発電不能となりたるにより、今後は特情扱いとして本省あてに直電すべきにつき、従来の特情と同様のお取り扱いを請う」と打った。日本の国策通信社、同盟ですらも駐在員を置けなかったのである。 
 
こうした状況で日本の報道機関が取り得る最善の方法は、すでに現地に許可を得て滞在している日本人を、特派員として雇い入れる事であった。読売新聞は早速バーゼルに留学中の喜多村浩を特派員に任命した。 
 

 
<笹本の転出>  
 
一九三九年の大晦日は、笹本は仲間とベルンのカジノレストランで祝った。今も存在するレストランで、筆者が現役大統領を見た所である。スイス人歴史学者について、スイスの歴史の勉強を始めた笹本であったが、翌年早々、ハンガリー公使館に転勤となる。 一九四〇年四月二十日ベルンを発ってブダペストに向かった。翌日昼にはブダペストに着いた。  
 
時を同じくする四月十八日、スイスは世界に向けて声明を発した。 
「侵略国がいずれの国たるを問わず、ひとたび敵の侵略を受けたる場合にわが国は全土を焦土と化するとも、最後まであらゆる方法を以って交戦を継続するの断固たる決意を有するものである」  
 
 ポーランドを蹂躙したヒトラーが、今度は西に進むという噂が絶えなかったからだ。 
六月ドイツ軍は電撃的にパリに進駐し、フランスはドイツと休戦条約を結ぶ。フランスの完全な敗北であった。同時にスイスは周囲をぐるりと枢軸国に囲まれ、自由主義国との路は、絶たれたも同然となった。 
 

 
<田口一郎の死>  
 
田口一郎は、八月十四日午後五時十分不慮の死を遂げる。その経緯の一部はスイスの公文書館に記されて残っているが、ここでは割愛する。  
 
兄の死後間もなくして、田口二郎は公使館を辞め朝日新聞のスイス特派員、笹本も同様に同社ハンガリーの特派員へと転身した。同時に二人が朝日新聞に就職するというのは、どうもかれらを疎んじた公使館と、戦争突入後日本からの交通路の途絶した欧州に、特派員網を充実させようと狙っていた朝日の思惑が、うまく一致したからであろう。  
 
スイスの公文書館の記録によれば、田口が朝日の特派員としてチューリッヒに転入を希望したのは、兄の死から二ヶ月後の十月十五日であった。  
 
そしてこの時を同じくしたジャーナリストへの転職は、二人にとってはまさに怪我の功名だった。キャリアではないから、公使館に残っていては出世のチャンスは少なかっであろうが、欧州戦争を体験したジャー ナリストとして、戦後五十年にわたって、自らの体験を語り続けることになるからである。  
 

日本参戦> 
一九四一年の十二月八日未明、日本海軍は米英に宣戦布告し、真珠湾の米艦船に襲いかかった。時差の関係で欧州では七日夜のことであった。翌朝スイスでは同盟の特派員小島亮一が 
「ハワイの軍港に国籍不明の飛行機が現われ、攻撃を加えた」と三谷公使に電話で知らせた。日本の奇襲攻撃は、欧州の出先機関にも一切事前に知らされてはいなかった。  
 
こうして日本も交戦国の中に加わった。スイスは中立国であるから、邦人もこれまでどおりに滞在することが出来た。政府は枢軸国人を、反枢軸国人と同等に扱った。しかし民間人の反日感は以前にも増した。レストランにおいて公然と「あなたたちにお出しするものはありません」と注文を拒否する様な店もあった。そんな延長にまた事件が起こった。  
 
開戦間もない一九四二年二月二十六日、読売の特派員となっていた先述の喜多村はバーセルに出張し、夜には公開舞踏会に出席した。その帰り突然、中国人らしき人物によって、眼鏡の上から顔を殴られた。  
 
運ばれた病院で直ちに手術をして、ガラス片を取り除いたが、失明の危険もあった。中国での日本軍の横暴ぶりに対する反感が、根底にはあったらしい。戦争の影響を、スイスの邦人もこうむるようになった。  
 
そのころ同盟では、小島に代って親独フランスの首都ビシーから、堀口瑞典(ほりぐちよしのり))がベルンにやってくる。七月にはチューリッヒに移る。  
 
田口も同年の一月三十日にチューリッヒに移っている。さらに毎日の若山淳四郎が四月二十日にベルリンからやってくる。これまでの喜多村に彼等が加わった事で、今日と同じように朝日、毎日、読売の三大新聞社がそろって、横並びで特派員をチューリッヒに配置する事になる。戦時報道体制が整った。スイスにおいて政治の中心はベルンであったが、経済、マスコミの中心はチューリッヒであった。  
 

<田口特派員>  
 
日本参戦から半年を経た六月十一日、米ソ相互援助条約が締結されると、ベルン田口特派員の名で、スイスでの反響の報告する記事が、六月十四日の朝日新聞に掲載される。筆者の調べた限りでは、新聞紙上にはじめて署名入りで田口が登場する。  
 
「米英側の無謀を暴露、スイス.日本不敗の現実強調」という見出しに続けて、条約に対するスイスでの受け止め方を紹介し 
「ひとたび欧州で連合国が有利に大戦を導き得るにしても、戦略的地位の強固な日本を東亜で破ることの不可能なことも、暗に認めていることは注目される」と結んでいる。  
 
スイスでは欧州戦争は連合国有利という考えが、この頃すでに大勢を占めていた。それでもアジアは違うと、日本礼賛の文章になってしまうのは、時節柄止む負えないところであろう。  
 
九月六日にはチューリッヒ発田口特派員の 
「スイス中立に汲々」の見出しに続いて、当時の周囲を枢軸国に囲まれ、孤立状態のスイスの生活ぶりが紹介されている。  
 
「今後とも中立が如何にして維持され得るやという疑念の他に、戦争の長期化とともに中立国自身の経済状態も、益々悪くなる一方だからである。  
 
外国のニュース映画が上映される毎に”観客諸君が、個人的感情を表示する如何なる振る舞いを厳に慎まれる事を希望する。もしかかる振る舞いが見受けられる場合、我々はやむを得ず、今後外国の戦争ニュース映画を、全部上映禁止にしなければならぬかもしれぬ”との政府筋の告知が提示される」  
 
当時、欧州ではもっとも食糧事情の良いとされたスイスでも、物資の不足が目立ってきた。物価はものによって六割から十割ほど平時から比べて昂騰し、肉類は週四日しか販売されなくなった。一人当たりの一週間の肉類の割り当ては五百グラムであった。  
 
十月二十五日にはチューリッヒ発同盟として「スイスに空襲警報、ベルンでも高射砲が火を吐いて市民を驚かせた」とある。堀口の情報である。  
 
英国を飛び立った連合国の航空機がイタリア空襲に向かう際、スイス上空を通過する事件が頻発した。そして誤爆によって、爆弾がスイス領土内に落ち、死傷者も出た。スイスはドイツの要請で、夜間に灯火管制を敷いたため、連合国の飛行機が誤ってスイス領空に進入してしまった。  
 
これに対してスイスは、自国の主権を守るために攻撃を加えた。国内では欧州を解放する連合国に、砲火を浴びせるのかという非難も沸き起こり、微妙な問題を提起していた。  
 

 
<ハンガリーの笹本>  
 
この頃の様子をハンガリーにいた笹本は書いている。まず日本開戦の時は 
「翌日公使館に、ブダペスト在住の日本人全部が集まり、公使のOさんがあいさつした。Oさんは途中で泣きじゃくってしまい、それにつられて参会者の半ばも涙を流した。  
 
一同はOさんの音頭で万歳を唱え、涙をぬぐって大声をあげた。誰もが明解な見通しを持っていたわけではなかったが、”勝たねばならぬ”という気持ちは強かった」 Oさんとは大久保利隆公使のことである。  
 
ベルリンから朝日の重鎮である笠信太郎(りゅうしんたろう)が出張で訪れると 
「二ヶ月も続けてドイツにいると、へどが出そうなくらい気分が悪くなるが、こうしてドイツを出たとたんに気分がそう快になるんだから不思議だね」なんて開口一番、笹本に漏らしたという。まだハンガリーは戦場になっていなかった。
 
イメージ 1笠信太郎の阿部中将のサイン帳に記帳したサイン 1943年10月16日 ちなみに後に笹本の妻となるイボンヌ ジェンヌはサインのあるビュルガージェンヌの姉で第二部で述べる (阿部 信彦さん提供)
 
またベルリンと異なり邦人の少ないブダペストでは、笹本の家は皆の集まるサロンのようになっていたようだ。一九四三年一月二十三日、フィンランドに留学していた桑木務はハンガリーを訪問する。
 
「ちょうどベルリンから来ていた朝日新聞の山脇亀夫君と、交換留学生になって在住している菅博雄君、武官室の吉川さんほか日本人十名ばかり、笹本駿二氏のお宅によ招ばれて、会食、快談した。
 
女優の澤蘭子さんも、今日ドイツからやってきたとかで参加した。 (中略)”澤蘭子にはさわらんことだよ”とだれかが囁いた。」
 
1934年澤蘭子はアメリカに渡る船で、指揮者近衛秀麿子爵と知り合ったという。そしてアメリカで同棲が始まり、ドイツに移った。1945年1月のドイツ邦人名簿では澤は近衛の妻と記載されている。

子爵は元首相近衛文麿の弟である。それが下地にあって彼女には手を出すなと言う意味で、先の「澤蘭子にはさわらんことだよ」という発言が出たのかもしれない。子爵の欧州での行動も興味深いものがあるが、ここでは触れないでおく。
 
笹本はこの年の春、ハンガリーからもう一つの中立国トルコのイスタンブールに転勤となる。前任の前田義徳(後のNHK会長)が日本に帰国したためであったが、前田の妻は満州国籍のハンガリー人と外務省の記録には残っいる。前田に留まらず国際結婚をする報道関係者は当時欧州において非常に多かった。  
 

 
<アルプスの山>  
 
イスタンブールの笹本は、仕事が少なかった。一九四三年五月、笹本はそこから占領下のパリに出張する際、チューリッヒに立ち寄った。二年ぶりのスイスであった。駅には田口二郎と、ドイツからちょうど出張中の朝日の笠信太郎が、笹本を迎えた。  
 
三人でベルナーオーバーラントのグリンデルワルトに出かけた。今日日本人が多く訪れる、ユングフラウの登山鉄道の出発点である。駅の裏のゾンネンベルクホテルに、荷物をほどいた。  
 
戦争の見通しに、まず大先輩の笠の意見を聞いて、二人も考えを述べた。 「大勢はすでに決した」という点で三人の意見はほぼ一致した。さらに笠は 
 
「戦後の世界がどうなるかについて、まだよくはつかめない。いずれにしても米ソの関係がどうなるか、それが根本問題であろう」と、戦後すぐに燃え上がった冷戦までは予想できなかったが、米ソ関係については十分不安を感じていた。  
 
彼等の訪れた五月下旬のグリンデルワルトは春真っ盛り。高い峰には白雪が輝き、村を外れたところには氷河が青白くきらめいている。ホテルのテラスからはアイガーの巨大な岩肌がそそり立っている。夜になると、山肌にはポツポツと明かりが点る。笹本は平和で自然に恵まれたスイスが、また好きになった。  
 
おそらくこの小旅行について、田口も「回想の笠信太郎」という笠の追悼文集に書いている。 
「国民皆兵主義のスイス軍は平野を捨ててアルプスに一大要塞を構築し、長期の山岳戦を準備する事になった。ちょうどこのもっとも緊迫した季節に、笠さんとアルプス山麓を旅した事がある。  
 
スイス中の登山ガイドを集めた精鋭部隊ー山岳戦の教師として集められたものーにぶつかった時(その中には登山道楽である私の多くの顔見知りがいる)小国ながらも、あくまで祖国を防衛しようという意気の盛んなことに、笠さんも大きな感銘を受けたらしい」と山好きらしい回想である。  
 
田口のアルプスに対する情熱は、祖国が戦争に突入しても、そして自分が朝日の特派員となっても全く衰えない。戦後間もなく紹介された田口の文章に「回想のヤング尾根  一九四三年七月」がある。  
 
「世界山岳全集」にも収められた、登攀記である。七月というので一週間ほどの夏休みをあてたのであろう。その冒頭には、戦時下のスイスの山岳観光地の様子が綴られている。  
 
「ブライトホルンの北面を登るその前の晩、ガンディックの小舎で、私はなかなか寝つけなかった。 前の日に、(チューリッヒのような)都会から来た足でいきなり四千メートルのオーベルガーベルホルンのアルペン尾根を登り、その日はシェーンビュール小舎からはるばるやって来たので、無理が祟って体のふしぶしが年寄りのように痛む。(中略) 
眠られぬままに、私には、ツェルマットに着いた日の情景があれこれと思い出された。久し振りで訪れたツェルマットは、戦争で外来客が途絶え、さぞかししけていると予想して来たのに、思いの外の賑わいぶりだった。  
 
客といってもスイス人ばかりだが、絵葉書屋や土産物屋の店頭に都会人が人だかりしているのや、その間をむさ苦しい風体の年配の案内達が、髭面にパイプをくわえ、両手をズボンにつっこんで、退屈げに行きつ、もどりつしている風景は、戦前のそれと少しも変りはなかった。  
 
その村の狭い一本道を、ウィンパーのレリーフのかかったホテル.モンテ.ローザの手前まできたところで、顔馴染の案内オットー.フーラーが屈託のない足取りで、下りて来るのに出くわした。  
 
私の出現が思いがけなかったのか、彼のしわちゃくれの陽やけ顔にほうという驚きの色があらわれた。それも束の間で、ついでベルンで物故した私の兄についての親切な悔やみの言葉がのべられた」  
 
山のガイドと顔馴染になるほど通ったのであろう。戦前、しかも戦時中である事を考えれば、恵まれた環境の田口であった。また巻末の解説には、田口についてこう書かれている。 
 
「田口二郎は、甲南高校、東大の山岳部時代から活躍(昭和十年日本山岳会入会、会員番号一五九〇)昭和十二年七月父君に伴われ、兄一郎と共に渡英、昭和十四年の夏英国からスイスに渡ってアルプスの山々を渡り歩いている時、第二次世界大戦のためロンドンに戻れなくなり、スイス滞留を余儀なくされた。
 
兄一郎もまたすぐれたアルピニストであったが、昭和十六年急性肺炎のためスイスで客死した。著者は戦後第一次マナスル隊に参加し活躍した事はまだ耳新しい」 
 
第二部以上 
 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら

本編に関連する書籍「第二次世界大戦下の欧州邦人(ドイツ・スイス編) 」はこちら