<糸で繋がる死> 
 
人は年老いてくると「今死のう」と、自らの死ぬ瞬間のタイミングを考えることがあるのであろうか。勿論自殺とかではなく、病気などの時の話である。例えば古い友人の死を聞いて、同じく年老いた彼は、病床で生き続ける努力をそこで止める。これは十分考えられる事だ。  
 
 さらには遠く離れて相手の状況について知らないにも拘わらず、偶然二人が同時に息を引き取る。彼らの間には何らかの形でコミュニケーション(超伝達)が成立していたからだ。筆者がそんな思いを抱いたのは、立て続けに出た新聞の死亡欄がきっかけであった。  
 
一九九八年九月三十日、朝日新聞の社会面に 
 「大戦前後の欧州情勢報道  笹本駿二(ささもとしゅんじ)氏死去」の見出しで、 
 「第二次大戦前からヨーロッパに住み、揺れ動く各地の情勢を日本に報告し続けたジャーナリストの笹本駿二(ささもと.しゅんじ)氏が二十八日未明、老衰のためドイツ.デュッセルドルフの自宅で死去した。八十六歳だった。  
 
一九一二年台湾生まれ。京都大学文学部を卒業したあと、三八年に渡欧。通算五十年近くにわたってチューリヒ、ブダペスト。イスタンブール、ベルリン、パリ、ボンなどに住み、文筆活動を続けた。この間朝日新聞特派員、NHK解説委員等も務め、晩年はボンとチューリヒを拠点に静岡新聞などに執筆していた。  
 
中でも第二次世界大戦前後の生の欧州情勢の報道は貴重な記録として残り、後に”第二次世界大戦前夜”などにまとめられた。その外、主な著書に”ベルリンの壁崩れる””スイスを愛した人びと”などがある」と欧州現代史の生き証人の死を伝えた。  
 
またそれより六日前の九月二十四日には 
 「田口二郎氏(たぐちじろう 元日本山岳会副会長、元大倉商事専務)二十三日午前三時七分、慢性腎不全のため神奈川県鎌倉市の病院で死去,八十五歳。喪主は妻エルナさん。自宅は鎌倉市、、、」と一人の山岳関係者の死がひっそりと報じられた。  
 
新聞記事を見るかぎり、両者は死亡の日時および享年くらいしか類似点はない。しかしこの二人は過去において、深く繋がっていた。それは六十年前のスイスでの話である。 
まだ海外、特に欧州に駐在する日本人の数がごく限られていた戦前に、二人は共にスイスの日本公使館員として雇われ、戦争が始まると、そろって朝日新聞の特派員に転身した。  
 
日本が敗戦を迎える一九四五年の八月、朝日新聞のチューリッヒ支局は、この若い二人によって営まれていた。中立国スイスから戦争を見つめ続け、本国に最後まで記事を送り続けた。  
 
また田口はスイス人を、笹本はドイツ人を妻としたのも当時としては珍しい。その二人が九十年代の後半、わずか六日をおいてドイツとスイスで、相次いで亡くなったのである。 
 

 
<戦前のスイス>  
 
中立国として名高いスイスは当時、今日よりさらにこじんまりとしていて人口はわずか四百五十万人であった。首都ベルンはアーレ川の湾曲部に盛り上がった丘の旧市街を中心に広がり人口は十一万人あまり、そんな小国にふさわしい規模の都市であった。  
 
街の中心部にある国会議事堂の前を起点とし、隣りのベルン随一の高級ホテル、ベルビューを通り過ぎると、道は右に曲り急に視界が開ける。谷が広がりはるか眼下には、深緑色をしたアーレ川の急流が、人工的な段差にさしかかり青白く波立っている。緑色を帯びた水流は、アルプスの氷河を水源とする。  
 
川には市電も通る大きな橋が架かっている。全長二百メートルはあろう。天気が良ければ、橋のたもとからスイスアルプスの連山が見える。 鉄骨で組まれた頑強なその橋を渡りきるとヘルベチア広場である。広場の名前であるヘルベチアとはスイスの昔の国名だ。何もない。正面には歴史博物館の建物がそそり立っている。  
 
そこから真っ直ぐに品の良いトゥーン通りが伸びている。なぜ品が良いかというと、どういう規制によるのか、この道の両側には高級住宅が並ぶが、途中に商店やレストランは一軒もない。市電の二駅分を進むと五差路に突き当たる。歩いても大した距離ではない。トゥーン広場である。  
 
今進んできたトゥーン通りと、広場から左下に伸びるユングフラウ通りに挟まれた細長い二等辺三角形の土地には、三階建ての瀟洒な建物が建っている。住所はトゥーン通り五十五番地だ。表札には”AGRAPI”と書かれ、信託会社が入っている。(下の写真)
 
イメージ 1
筆者が撮影した、旧日本公使館
 
以上は現在のトゥーン広場の描写であるが、五十年以上前のでもそのまま通用する。なぜなら当時の写真を見ても、今と同じ建物の構造だからだ。違うのはこの建物の住民だけである。  
 
かつてはここが笹本、田口が勤務した日本国公使館であった。今はスイスにも場所を代えて立派な日本の大使館があるが、当時は格の下がった公使館であった。もっともその時日本が大使館を開設している国は、米英を筆頭に十ヶ国余りだけだったが。  
 
一九三八年、日本から赴任してきた笹本を迎えた駐スイス公使は、天羽英二(あもうえいじ))である。天羽は一九三四年四月、外務省情報部長であった時、内外記者団の質問に答える形で、列強の中国に対する援助に警告を発した。 
 
発言は欧米の強い批判を招き、日本外交を一時窮地に陥れたほどだ。しかもそれは情報部長の独断で行われ、外務大臣、次官、東亜局にも何の事前連絡はなかった。  
 
この強硬な天羽が、外交の第一線から身を引く形でスイスに向かったのは、一九三七年七月初めのことであった。家族を伴って海路、アメリカを経由して欧州に入る。八月十一日、スイス着任第一日目の様子を、日記にこう残している。  
 
「公使官邸に落着。十七年前の官邸に再び入る。官邸は変わらず”ベルン”は大いに拡張発展、美麗になりたり。ベルンの人も綺麗になりたり。官邸にはあたらしく雇いし”バレ”のみ。早速女コックを雇い入る。又下婢を募集す。荷物片付け。 
 
井上の案内。橋下の魚料理店に会食、大いに改善、立派なる料理店となりたるを見る。市内買い物散歩。官邸よりの”グルテン”眺望  後ろの森林昔と変わらず。湯河原あたりを文明化せし気持。夕方森中を散歩。 
 
井上夫婦らと Hotel Sternen Muriに招待。 会食す。ベルン第一夜を寝る。子供も久し振りに安眠す」 天羽がスイスの首都ベルンの街から思い浮かべたのは、ひなびた温泉湯河原であった。  
 

 
 <笹本駿二>  
 
一九九一年に発行された笹本の著作「私のスイス案内」には「スイスの首都ベルンで、公使館務めをはじめたのは一九三八年五月半ばだった」と記されている。天羽公使が 「誰かドイツ語の読める人を送ってもらいたい」という希望を本省に申し込んだため、笹本が派遣される事になった。  
 
笹本は帝大卒の将来を約束されたキャリア組外交官ではない。キャリア組は官補から三等書記官、二等書記官と昇っていくが、笹本の肩書きは書記生である。京大文学部卒の語学の専門家として、欧州に送られたのであった。一九一二年生まれであるから、二十六歳ということになる。  
 
先に引用した天羽日記の一九三八年五月二十一日の所には 
「昼笹本歓迎、今仁の送別のため一同招待」とかれのスイス到着を簡潔に述べられている。笹本の書く五月半ばのスイス入りは、こうして裏付けられる。五十年以上も前の日付を正確に書き記すあたり、さすがジャーナリストである。  
 
しかし当時の日本の頭脳が集まったはずの公使館では、天羽公使が頭を痛めるほど、館員の素行には問題が多かった。主犯格はその年に着任した織田寅之助であった。笹本の歓迎会の翌日の五月二十二日  
 
「(天羽の)不在中の件につき、工藤、織田、笹本書記生等に注意」と日記にあり、七月二日にも 
「笹本、工藤等  織田書記生の指導振りに感染悪化、注意を与える」と再び登場する。さらに七月十一日  
 
「館員、親戚の女と関係分娩  事務上風紀上不都合。今後の処置振り相談」と発展する。この親戚の女と分娩という館員も、前後から判断して織田である。今日でもスキャンダルとなるような出来事だ。  
 
十一月二十一日  「織田書記生帰朝命令  一寸本人弱りの体」と織田の帰朝で、天羽の悩みは一先ず解決する。  
 
ただし本国には織田のこうした行状は伝わっていなかったようだ。その後間もなくして、欧州は現ポーランド領のケーニッヒスベルク領事を務めることになるからだ。 
 
その織田は終戦間際、ソ連軍の接近に伴い「ベルリンに引き揚げよ」という命令に従わず、勝手にソ連に投降し、日本に送り届けられた。これでようやく、外務省から一切相手にされなくなった。  

織田の影響は排除された。しかし公使も日記に書いているのだが、小国で平和なスイスは、若い外交官にはさらに退屈なものであったようだ。かれらの無軌道ぶりは、さらに大きなも事件へと発展する事になるが、これについては後で詳しく述べる。  
 

 
 <公使館>  
 
笹本の書によれば当時の公使館の様子は次の様だ。 
「公使館建物の南側に日光のよく当る、天羽公使、ビュルナンさん、塚本書記官の三つの部屋が並び、その右側に大部屋があって、ここに織田さん、工藤さんとタイピストのユンカーさんの机が置かれ、簡単な面会室もあった。  
 
僕の仕事部屋は、この大部屋の北側にあって、畳にすれば二十畳はある大きなものもので、そこにどっしりした同じ大きさの机が二つ向かい合い、それに直角に二つの机が置かれていた。南側の壁には大きな本棚が立っていた。(中略)  
 
僕の仕事は、第一に、スイスのドイツ語新聞を読んで、面白いものがあれば、その要点をまとめて、天羽公使に報告すること。スイスにはチューリッヒのノイエ.チューリヒャー.ツァイトゥング、バーゼルのバーズラー、ナハリヒテン、ベルンのディア.ブントなどのドイツ語の有力紙があってジュネーブやローザンヌのフランス語新聞よりはずっと重要視されていた。(中略)
 
新聞読みは僕の主な仕事だったが、そのほかにに、暗号電報の解読のお手伝いもするようになったし、天羽さんが御自分の政局判断を本省に報告するときには、その文章を天羽さんが音読し、ぼくがこれを清書するという仕事もあった。(略) 
 
また本省や世界各地にばらまかれている大使.公使たちの送ってくる電報の中には面白いものもあった。とにかくこの仕事は、ぼくにも多いに役立つものとなった。」  
 
この笹本の記述から、トゥーン通り五十五番の公使館の部屋割りが分かる。また若い公使館員の仕事内容もだ。しかし天羽はそうした笹本らの仕事に対する評価も厳しい。  
 
翌年天羽は、スイス人の新聞記者ビーゼ博士を雇い入れ、毎日スイスのドイツ語新聞を読ませることにする。日記にいわく
「館員の(新聞の)読み方物足らず」  
 
新聞読みが主な仕事と書く笹本に対し、天羽の日記では、ほとんどジュネーブとの間の伝書使(クーリエ)として登場しているのみである。ベルンに日本から重要な客があるとき、かれはジュネーブまで出かけて、外交文書ではなく、皆の食卓に出される魚を運んだ。  
 
山国スイスでも、ジュネーブまではパリから魚が届いた。実際はこんな仕事が駆け出しの、しかもキャリアではない外交官の、主な務めであったようだ。笹本は違う書き方をしているが、回想録における自己美化は、どうしても避けられない。 
笹本の著書に戻ると、ベルンという町を象徴している箇所がある。  
 
「ぼくは買い物をするために、電車に乗って町のまん中までいくことになった。ぼくの住むアパートの裏側に市電の停留所があるので、そこまでいって電車を待つことにした。 
 
するとそこに中年を過ぎた年配の、上品な人物が一人で立っている。(中略)この紳士はちょっと頭を下げて先に電車に乗り、ぼくはそのあとにつづいた。  
 
この人物が車内に入ると、おどろいたことに乗っていたひとたちが一斉に立ち上がり、帽子をぬいで”こんにちは大統領”と声を合わせて挨拶をした。(中略)この上品な中年すぎの人物は、向かい側や左右両隣りのひとたちと気軽に話し始めた。(後略)」  
 
居合わせた笹本は 
「こんなことは日本ではおこらないな。この人物がほんとうにスイスの大統領なら、スイスという国は何と素晴らしい国であることか」と、強烈な印象を受けた。  
 
この紳士は現役の大統領であった。大統領と庶民の距離が、非常に近い国であった。テロの心配もほとんど無かったからであろう。スイスを終生愛する事になるひとつのきっかけであった。  
 
この伝統は今日にも続いている。最近も筆者がベルンの国会のそばのレストランで食事をしていると、テレビで見たことのある現役の大統領が、秘書を一人連れて入ってきた。日本のテレビで見るようなSPは一人もついていない。席に着くと女主人が親しげに挨拶に来たほかは、だれもが平常通りに食事を続けていた。  
 
話を戻すと公使館のメンバーも大分替わった。一九三九年一月、館員は塚本毅、帰国間近の織田寅之助、工藤、笹本、留学生で手伝いをする柳沢嘉寛と増えた。  
 
一方スイスに滞在する民間人が減って、年頭の公使館での拝賀式の出席者は、昨年の半分の十二名であった。民間人は全国でそのくらいであった。欧州情勢が不穏になってきたため、すでに多くは日本に引き揚げていた。  
 

<欧州戦争勃発>  
 
一九三八年八月、ミュンヘン会談で英仏が妥協し、いったんは戦争の危機が去った。しかし翌年にはいるとダンチヒ回廊をめぐって、ドイツとポーランドの関係が悪化を続けた。今度は英仏も譲らず強硬であった。  
 
翌一九三九年八月十四日、スイスにはもう秋風が吹き始める。翌日天羽はイギリス行きを決めた。日英関係も気にかかることばかりであった。 
 
八月二十二日、ロンドン出張から戻る途中に天羽はパリに寄った。滞在中のホテルで独ソ協定成立の知らせを聞いた。これまで不倶戴天の敵同士とされていたナチスと共産主義が手を結んだ。不気味な知らせであった。  
 
ドイツはこのソ連との不可侵条約で、後ろ盾を得て、安心してポーランドに攻め込めることになった。欧州戦争は必至と天羽は判断した。ところがフランスの代理大使宮崎は、休暇で海岸に繰り出していて不在。そんな同僚について 
「呑気なもの!」と日記に書き込んだ。
 
スイスに戻って天羽は本省に、戦争不可避とそれに巻き込まれない日本の独自政策遂行を、意見具申した。その後、ドイツ公使、オランダ公使等と会談するが、かれらは時局に関して全く楽観視している。今度も戦争は回避されると考えてた。  
 
「いずれもぼんくら揃い」と日記らしく、歯に衣着せずに書いている。 
九月一日、天羽の予想通りに戦争が始まった。ドイツが早朝、ポーランドに攻め込んだ。三日には英仏が「今度ばかりは」と対独戦線布告をする。欧州全面戦争の勃発である。 
 
ドイツ政府は戦争という言葉を巧みに避けた。侵略してきたポーランド軍への反撃という言い方がされたものの、二週間もするとドイツ軍はもうポーランドの首都ワルシャワに迫っていた。  
 
それに対しスイスでは、最早戦争は避けられないと判断し、国を挙げて着々と手が打たれていた。独ソ不可侵条約が成立した直後の八月二十九日、連邦政府は臨戦態勢の発生を宣言し、同時に臨時連邦議会を召集する。  
 
八月三十日、議会はほとんど全会一致で政府に対して全権を委ね、アンリ.ギザン大佐を将軍に昇進させた。平時には空席のスイス軍最高司令官に任命された。 八月三十一日、列国に対して「スイスは今度の紛争に厳正中立を守る決意である」ことを通告した。  
 
そして開戦と同時に、国民の一割に当る四十万名を動員し、国境沿い配備した。二年にわたって辛抱強く作り上げてきた戦時経済体制が発動され、全世界にスイスが中立を守りぬく覚悟であることを訴えた。  
 
天羽は開戦を知り「欧州文化の没落かな」と嘆く。欧州に駐在する他の日本の大公使をみると、ドイツの大島浩大使を筆頭に「さらにドイツとの提携の強化を計り、これぞ日本の南進の好機」と考えるものが多くいた。しかし天羽は笹本ら若い館員に向かって  
 
「この戦争は、勝敗は別として相当長びくにちがいない。日本はその間に急いで日支事変を片づけねばならない。そしてヨーロッパ戦争には絶対中立を守り、その間世界貿易でうんと稼がねばならないし、稼ぐことができる。そういう大きなチャンスをもたらしたヨーロッパ戦争は、日本にとってはまさに神風である」と節度ある日本の態度を説いた。  
 
やや機会主義的ではあるが、当時としては理性的な考え方であった。天羽声明を発し、強硬派と目されたかれからは、いささか意外な感のする見解である。しかしその後日本はこういう道を選ばない。それに対し戦争中も貿易で稼いだ筆頭は、スイスであった。  
 
朝日新聞社が日本から早速電話してきた。国際電が開設されたばかりの時である。欧州戦の見通しについて天羽の意見を求めた。  
 
「詳しくは本省に送ったが、長期戦は必至」と天羽は述べた。ドイツの大島浩大使はドイツの短気間の勝利を予測している。長期戦を予想したのは天羽と重光葵(しげみつまもる)駐英大使くらいであった。また本省へ送った報告は、公使館で笹本らに語った日本のとるべき態度であった。  
 
九月二十日、笹本がドイツ開戦後初めて、スイスからベルリンに向かう。天羽の日記によればここでも外交文書を運ぶクーリエとしてである。スイスの邦人は誰もが、ベルリンの状況を 知りたがっていた。このドイツ訪問については笹本本人が「第二次世界大戦下のヨーロッパ」の中に書いている。  
 
「ポーランド戦の大勢が決した九月中旬、わたくしはベルリンに出かけた。ドイツの首都の状況をのぞいてみようと言うわけである」 
そして笹本の目に映ったベルリンは以下のようだ。  
 
「開戦からまだ二週間しかならぬベルリンでは、戦争のあたえたショックの跡がまだ生々しく感じられた。”とうとう戦争になってしまった。こんなはずではなかったのに、ヒトラーは”という失望感。(中略)ベルリン市民の表情のなんと暗かったことだろう」  
 
百聞は一見にしかず。ポーランド戦の短期的勝利に沸くのは政府の宣伝のみで、市民は冷静に、戦争がもたらす将来への不安を抱いているのを笹本は感じ取った。 
灯火管制の敷かれた戦時下のベルリンから、明るいベルンに戻った笹本は、戦争のない国の幸せを実感したという。ただしスイスもドイツの圧力で間もなく夜間の灯火が禁止される事になる。 
 
 第一部以上
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