山手8番は1943年、スエーデン領事官邸、イタリア領事館、イタリア領事官邸として使用されている。番地内に複数の建物があったのであろう。この時イタリア領事館に勤務したのはプロスペロ領事だけだ。
さかのぼる1939年3月23日には
「我が世の春を謳うイタリアンファシスト党結成20周年記念祝賀会が、あたかも日伊文化協定調印の23日午前11時、横浜中区山手町イタリア領事館でアウリッチ大使、プロスペロ領事司会の元に京浜在留党員90名が参集、盛大に催された。」(読売新聞)
と黒のファシスト制服に身を固めた党員が集まる中で、プロスペロ領事は意気揚々と司会を務めた。
その後いったんイタリアに帰国する。読売新聞1939年6月15日神奈川版に次の記事が出る。
「第二の祖国 日本にさようなら。
30年の長い思い出を胸にして 横浜領事帰国
日本駐在30年、特に防共の友としてハマの市民には殊の外馴染み深かったイタリア横浜駐在総領事アルフレート・デ・プロスペロ氏は今回一身上の都合で長い日本生活にお別れして15日横浜出帆のエムプレス・オブ・カナダ号で帰国する事になり14日午前11時横浜市役所に青木市長を訪れ帰国の挨拶を述べた。
来朝後まもなく誕生した今は亡き夫人の忘れ形見エー・デー・プロスペロ君が今祖国の護り第一線についている。」
来朝後まもなく誕生した今は亡き夫人の忘れ形見エー・デー・プロスペロ君が今祖国の護り第一線についている。」
しかし再度横浜領事となって戻ってくる。ほかに適任者がいなかったのであろうか?どうも領事はその都市に馴染みのある人が選ばれるようだ。以下はまたプロスペロに関する記事である。
1943年9月8日に、本国イタリアが連合国と締結していた休戦協定を発表して枢軸国から離脱し降伏する。翌9月9日、読売新聞の記者が領事館を訪問して記事を書く。
「堅く扉閉ざして。
伊総領事館、虚脱のごとき表情。
静かな横浜山手外人街、その一画にイタリア領事館は何事も知らぬように、物音ひとつ立てず眠っていた。日独伊枢軸のちぎりから崩れ落ちたイタリア。
ワイシャツ1枚の男が首だけ出して、”領事は今日はどなたにもお目にかかれないことになっています”と素っ気ない返事だ。」
流石に領事はこの日は誰とも会う気にはなれなかったようだ。
流石に領事はこの日は誰とも会う気にはなれなかったようだ。
下は1942年の日本の外事警察のプロスペロ領事に関する報告だ。
「本年11月イタリア本国より本邦向け連絡のため軍用機飛来し、(その帰国便に委託して)報告書を本国に送付すべく、作成に繁忙を極めた。
これは昭和16,17年度におけるわが国の生糸関係詳報なり。その他本年度中特異の行動なし。」
これは昭和16,17年度におけるわが国の生糸関係詳報なり。その他本年度中特異の行動なし。」
1942年6月29日にローマを飛び立ったイタリア機が、危険を冒し東京に到着したのは7月3日である。よって上の11月というのは勘違いか、船舶の到着の事であろう。
終戦は足柄下郡温泉村の富士屋ホテルで、代理大使オメロ・プリンチピニ他40名の外交官等とともに迎えた。半ば抑留中であった。イタリア本国では1943年にクーデターが起こるが、プロスペロは最後までムッソリーニ側に付いた。
1945年6月13日のプリンチピニ代理大使の外務省宛口上書によれば
「同代理大使が日本の外務省から、公務執行機能を停止する旨の通知を受け取り、日本政府が同意するなら、プロスペロ元領事に在日イタリア人およびイタリア権益の擁護に当たらせる」と、なっている。
ドイツの傀儡政国家であるイタリア共和国を日本政府が認めなくなった後でも、在留イタリア人の保護のための機能だけは残そうとしたのであろう。
「同代理大使が日本の外務省から、公務執行機能を停止する旨の通知を受け取り、日本政府が同意するなら、プロスペロ元領事に在日イタリア人およびイタリア権益の擁護に当たらせる」と、なっている。
ドイツの傀儡政国家であるイタリア共和国を日本政府が認めなくなった後でも、在留イタリア人の保護のための機能だけは残そうとしたのであろう。
