1921年の地図の36番から39番にかけては、「フェリス女学院大学山手キャンパス」で、現在37番で包括され他の番号は存在しない。中で残るのは39番1のマンション「クラッシィハウス山手町」だけ。

1884年から1900年まで37番には、W.R.Bennetの「ベンネット邸」があった。1926年頃からフェリス関係者が多く利用し、Bluff Archivesに名前が載っている。こちら

同学院のホームページ似よれば1925年に37番、38番の1995坪を購入。

1942年、43年まで外国人の居住が確認出来るが、彼らはその後交換船で帰国したか、抑留されたかのどちらかであろう。
 
同大学は泉区緑園に移り、ここのキャンパスは使われていないようで、いつも門が閉じられている。
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現在のキャンパス。柵の外からの撮影で、壁のデジタル時計も止まっている。
 
その校内の10号館(38番と記載がある)は、アントニン・レーモンドの設計でライジングサン石油会社(シェル石油の前身)の社宅として1929年に建築され、現在横浜市認定歴史的建造物。
 
1940年頃、横浜で外国人が一番多く働いていたのが、このライジングサンであった。幸い柵の外から、外観を撮影できる。戦時中は敵国資産として、凍結されて住居者はいなかったであろう。
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旧ライジングサンの社宅。メゾネットタイプで、4つの住居に区分される。
 
40番はBluff Archivesによれば1915年から1920年はGerman Schoolの名前が確認できる。その前はドイツ海軍病院。手彩色の絵ハガキも紹介されいる。こちら
 
1921年の地図では40番、41番の位置にはGerman Hospital(ドイツ病院)があった。1929年に同地に市立元街小学校が開かれるが、現在の住所は山手町36番地になり、いささか他と番号が離れている。イメージ 3
元街小学校。校舎は崖を上ったところにある。
 
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