<邦人>

古くは鉄砲伝来、フランシスコ・ザビエルと言った名前で日本人に知られたポルトガルであるが、この頃ポルトガルに暮らす日本人は非常に少なかった。戦前最後の記録1939年10月現在の調査では15人が暮らすのみであった。うち外交官は3名、軍人が2名である。それが外交官だけでも1942年2月1日付けの外務省職員録によると、以下のように6人に増えている。日本にとっても米英の情報収集基地として、重要度が増した。ただし嘱託の身分である友岡の名前は載っていない。

公使 千葉蓁一
一等書記官 井上益太郎(1年足らずでハンガリーより転入。人員強化の一環か?)
外交官補 吉岡俊夫
書記生  上野毅夫          
書記生  岩瀬幸
書記生  辻野昭

開戦と共に増えてきた邦人だがこの時期、外交官以外の人数は正確にはつかめていない。名前の判明しているのは三島美貞陸軍武官大佐、茂木政(朝日新聞)、斉藤正躬(同盟通信社)である。三島は軍人出身でありながら内閣直属の企画院に属し1941年2月、友岡と同じタイミングでドイツに経済研究のため出張に出た。その後1942年3月にポルトガル駐在陸軍武官となる。

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ポルトガル公使館メンバー他。左から二人目の少女は吉岡俊夫、須磨子夫妻の長女寿実子か?千葉公使夫妻の間の子供は井上益太郎の長男?後列右端は明らかに陸軍軍人らしく三島か?



<千葉公使の異動>

1942年10月14日、千葉公使の後任として森島守人に辞令が発令された。森島はニューヨーク総領事であったが、日米の開戦で米国により抑留された。その後日米間で外交官を交換する取り決めがまとまり、森島は日本に向かう途中ポルトガルの赴任を命じられ、モザンビークからリスボンにやって来た。日米同数の交換外交官が、共に通常の赴任が困難な欧州に向かうことが合意されたのであった。

朝日新聞によると「千葉公使は駐仏大使館参事官として、三谷大使を補佐。今後ビッシー政府との交渉にあたる。」とあるが、フランスで千葉は占領下のパリで旧日本大使館に勤務した。赴任後1年半での早い異動は、千葉公使に何らかの事情があったことを想定させる。

森島公使の到着は10月21日であった。同じ船でアメリカからリスボンに着いた藤山楢一官補が当時の様子について書いている。
「千葉公使以下、友岡久雄教授も嘱託で駐在していて、日本にとっては英米の情報収集基地の一つであった。」

次いで1942年12月11日、新任の森島公使は谷外相宛てに書き送る

「情報事務担当者増強の件」
「現在情報関係館員は書記官一名(小野)、嘱託一名(友岡)、官補4名(吉岡、藤、安藤、松井)なるも安藤は病気療養中、松井は近来健康を害しおり。」と情報関係者が増強され、そこに友岡が含まれることを書くが、森島と同様に交換船で日本から赴任してきた小野孝太郎が責任者となった。

小野は日本で企画院書記官であった。彼は外務省から企画院に出向していた。そのためリスボンでの待遇は、民間出身の友岡と異なり一等書記官であった。企画院では「企画院事件」というものがあり、1941年までに左翼活動嫌疑で19名の検挙者を出している。先の三島陸軍武官と今回の小野の赴任に、この事件との関係があったのかは、さらには外務省には、特高に追われた者が欧州に逃げるという一つの流れがあったのかは、今後の調査テーマである。

欧州着任以来、自分より若い職業外交官に交じって、嘱託の身分で働く友岡は苦労も多かったであろう。また予想に反しての早い千葉公使の異動に、友岡も戸惑ったはずだ。

森島の同じ電報はさらに
友岡嘱託は従事よりの経緯もあり、あるいは手離さざるを得なき次第なり」とある。
“従事よりの経緯”とは千葉公使との関係による赴任であることであろう。自分を引っ張ってくれた千葉公使が異動になれば、関連して友岡も異動することは容易に想定される。もしくは従事=仕事と辞書通り解釈すれば、友岡の仕事上の問題、つまり反枢軸的態度と言うことかもしれない。

戦前、戦中にアメリカの経済を研究した学者の幾人かは「日本との鉄鋼生産量、飛行機生産台数などの差が歴然としていて、日本が勝てるとは到底思わなかった」と戦後になって語った。

リスボンで英米の最新情報に接していた友岡が同様な考えを持ったとしても不思議はない。もしくは日本にいた時から、日本に勝ち目のないことは分かっていたのかもしれない。また1942年6月のミッドウェーでの日本海軍の大敗北は、日本では報道されなかったが、友岡の目には、英国の新聞を通じて入ったはずである。

森島公使の回想によれば、ポルトガルの邦人の関し
「三井、三菱、正金、郵船、満鉄、貿易斡旋所が人を提供し、外交官待遇で活躍した。官民合同で60人。小野孝太郎書記官がまとめる。」とかなり増えたことを書いている。海軍武官も赴任し、
新聞関係も、
同盟 佐藤重雄、本田良介
朝日 茂木政
毎日 佐倉潤吾
読売 山崎功
と各社揃った。

この事実を知ると眞子さんは、母親恒子さんが「リスボンのバーには父の名前でボトルがキープしてあり、特派員の方が自由にお飲みになったそうだ」と語ったことを思い出した。当時中学生の眞子さんにはその意味はよく分からなかったが、情報収集の仕事をしていたので、マスコミ関係者との付き合いも大事であったのであろう、と今その言葉の意味を理解した。



<ドイツへ>

1943 年3月8日、大島浩駐独大使が谷外相に電報を打っている。
「友岡嘱託はベルリンに着任。待遇は二等書記官並の趣。」

千葉公使に従いパリに行くことなく、ベルリンが次の勤務地となった。さすがにフランスでは友岡は活躍できないと判断したのであろう。しかしこの時期、ベルリンの日本大使館で人員を強化する必要があったかも、疑わしい。同じ時期スイスの徳永太郎3等書記官は反枢軸的思想と言うことで、大島大使の側で教育し直すとドイツに転勤になった。友岡も同様の理由でベルリンに呼ばれたと考えるのは、一つの可能性である。
        
ドイツ大使館は枢軸一辺倒の大島大使の下に総務、政務、経済、文化、領事の各部に分かれていた。友岡は専門である経済部に入ったと思われるが、ベルリンでの勤務に関する資料は見つかっていない。

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ベルリンにて。右は吉岡俊夫官補?吉岡もリスボンからベルリン異動している上、リスボン公使館の写真の前列右端の人物に似ている。

第三部以上