「満州国参事官 三城晁雄のアルバム」は書籍化されました。
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<序>
満州国イタリア公使館参事官,三城晁雄(以下晁雄と記す)の関係者には、筆者は常々コンタクトを取りたいと思っていた。2012年、『日本人小学生の体験した戦時下のイタリア』を書いた際に、ぜひインタビューをしたかった。またそれより前に書いた『戦時日欧横断記』の中でも、非常に過酷なトルコからソ連経由の三城一家の帰国経緯を、取り上げている。
そんな晁雄のお孫(三城恒二)さんからコンタクトがあったのは、2018年の夏であった。晁雄が6人の孫に分けて残したアルバムの一冊を、筆者は目にすることが出来たのである。写真は持ち帰ったものではなく、折々に日本に送ったものだけであった。多くの写真、持ち物は帰国途中での没収を恐れ、現地の人に預けてイタリアを引き揚げたが、戦後の混乱で戻らなかった。
つまり今回見た写真は、三城家の足取りのホンの何十分の一でかしかない訳だが、それでも貴重な体験は十分伝わった。本編はそれらの写真に晁雄自身の説明を添え、筆者が調べたことを加えることで、三城晁雄一家の欧州での足跡を伝えるものである。
付け加えると、戦時下の欧州を体験した人に関し、最近は孫の世代が調べようとするケースが多いようだ。一世代上の子供があまり行わないのは、彼らにはつらい記憶が生々しかったからであろうか?
<生い立ち>
写真解説:新京の自宅(自費で建てた家)母を迎えて。満禧は自動車、雄二はパパの腕に。左端妹夫婦。
1902年生まれの晁雄は熊本高校(五校)を卒業し、帝大法学部に進み、高等文官試験外交科の試験に合格し、日本の商工省に勤務するが、1925年中華民国の海関(税関の事)に転職する。ちょうど中華民国国家元首である孫文が亡くなった年である。
当時中華民国は財政が厳しく、税収が諸外国の担保になっていたため、債権国の国際管理下に置かれていた。よって税関の上級官吏は皆、債券国の人間であった。晁雄もその一人だったのだ。
大連の税関に勤務していた1932年、満州国が建国され、大連は満州国の領土となり、税関はそのまま職員一括して、同国財政部に入ったのであった。よって自ら望んで満州国に向かったのではなかった。1933年に栄子と結婚し、満禧(みつよし)、雄二が生まれる。
上の写真にある洋風でモダンな家を建てた満州国の首都新京では、財政本部に勤務した。
<イタリアに>
写真解説:神戸出帆 NYK白山丸にて 栄子と満禧
1937年12月、イタリアとスペインが満州国を承認する。ドイツが承認するのはその後、1938年5月である。1938年春、晁雄にイタリア参事官の辞令が出る。家族4人で日本に戻り、神戸から日本郵船白山丸に乗船する。別の解説に「春」と書かれているので、配船スケジュールからすると、3月31日に神戸を出港した航海であろうか?
大連から距離的に近い欧州航路の寄港地は上海であるが、当時は内戦状態で陸路の移動は不可能なので、日本に戻っての乗船となる。また日本の親族へお別れも兼ねてである。