<日本?負けるね!>
留学生篠原正瑛は回想する。
「開戦後在留邦人の中で最初から戦争が日本とドイツにとって勝算がないことをはっきりと見抜いていたのは、極めて少数の人たちであった。あるいは心の中では見抜いていたが、立場上はっきりと口に出して言えなかった人々も、かなりいたかも知れない。
留学生篠原正瑛は回想する。
「開戦後在留邦人の中で最初から戦争が日本とドイツにとって勝算がないことをはっきりと見抜いていたのは、極めて少数の人たちであった。あるいは心の中では見抜いていたが、立場上はっきりと口に出して言えなかった人々も、かなりいたかも知れない。
いずれにして、私自身もふくめて大部分の在留日本人は、心のどこかに不安を残しながらも、ある時期までは枢軸側の勝利を信じていたと思う。」
一九四三年の夏のことであった。篠原はあけぼ乃で偶然に朝日新聞の笠信太郎に会った。笠氏は日本において、進歩的文化人として軍部、特に陸軍ににらまれた。そこで同紙主筆である緒方竹虎の計らいでベルリンに逃れてきた。
「笠氏は中途半端な時間なのであまり客のいないあけぼ乃のテーブルの一隅に腰をかけて、洋酒らしいものをちびりちびりと飲んでいた。私は、たまたま居合わせた友人の紹介で笠氏と同じテーブルにすわって簡単な話をした。
その内容はいまではおぼえていないが、私が笠氏に向かって”枢軸側は勝つでしょうか”とぶしつけな質問をしたところ、ただ一言”負けるね”という冷ややかな答えがかえってきたことだけは、いまでもはっきりとおぼえている。」
すでに大島大使との関係の悪化していた笠は、この言葉を放って間もなくして、スイスに移り住む。そして日本の終戦間際には、祖国に向けてスイスの公使館から、和平勧告の電報を発信するのであった。
一九四三年の夏のことであった。篠原はあけぼ乃で偶然に朝日新聞の笠信太郎に会った。笠氏は日本において、進歩的文化人として軍部、特に陸軍ににらまれた。そこで同紙主筆である緒方竹虎の計らいでベルリンに逃れてきた。
「笠氏は中途半端な時間なのであまり客のいないあけぼ乃のテーブルの一隅に腰をかけて、洋酒らしいものをちびりちびりと飲んでいた。私は、たまたま居合わせた友人の紹介で笠氏と同じテーブルにすわって簡単な話をした。
その内容はいまではおぼえていないが、私が笠氏に向かって”枢軸側は勝つでしょうか”とぶしつけな質問をしたところ、ただ一言”負けるね”という冷ややかな答えがかえってきたことだけは、いまでもはっきりとおぼえている。」
すでに大島大使との関係の悪化していた笠は、この言葉を放って間もなくして、スイスに移り住む。そして日本の終戦間際には、祖国に向けてスイスの公使館から、和平勧告の電報を発信するのであった。
<反枢軸邦人>
駐在員は大島大使の元で親ドイツ派がほとんどで、ドイツの勝利を疑う発言を公然とするものはなかった。先の笠のような存在は例外であった。
ただし異端分子はいた。元東京帝国大学農学部講師でベルリンにおいて鉄鋼の研究をしていた崎村茂樹は、中立国スエーデンで自ら連合国側と接触した。英国の新聞に毎日目を通していたポルトガルの陸軍武官室は一九四四年五月二日、ベルリンの武官室に打電した。
「英国紙によるとドイツの鉄鋼統制官崎村は、ストックホルムで敵に走った。関係する書類に対して、早急で徹底した対応をとられたし。」
大島大使はドイツの秘密警察に対し、崎村のベルリンへの連れ戻しを依頼した。早速効果が現れた。五月二十四日今度はスエーデンの駐在陸軍武官がポルトガルに向け
「崎村とゲシュタポと(日本)外務省の間で合意に達した。崎村の過去は問わず、再び鉄鋼統制官に戻ることとなった。五月二十三日にベルリンに戻った。崎村の性格からしてそちらからもかれを励ます手紙を書くことは良い考えでしょう」と書き送る。
断っておくとこれはアメリカ側が傍受解読した英文史料を基にしている。解読者の誤訳の可能性もあり日本語が一部不自然なものになっている。
駐在員は大島大使の元で親ドイツ派がほとんどで、ドイツの勝利を疑う発言を公然とするものはなかった。先の笠のような存在は例外であった。
ただし異端分子はいた。元東京帝国大学農学部講師でベルリンにおいて鉄鋼の研究をしていた崎村茂樹は、中立国スエーデンで自ら連合国側と接触した。英国の新聞に毎日目を通していたポルトガルの陸軍武官室は一九四四年五月二日、ベルリンの武官室に打電した。
「英国紙によるとドイツの鉄鋼統制官崎村は、ストックホルムで敵に走った。関係する書類に対して、早急で徹底した対応をとられたし。」
大島大使はドイツの秘密警察に対し、崎村のベルリンへの連れ戻しを依頼した。早速効果が現れた。五月二十四日今度はスエーデンの駐在陸軍武官がポルトガルに向け
「崎村とゲシュタポと(日本)外務省の間で合意に達した。崎村の過去は問わず、再び鉄鋼統制官に戻ることとなった。五月二十三日にベルリンに戻った。崎村の性格からしてそちらからもかれを励ます手紙を書くことは良い考えでしょう」と書き送る。
断っておくとこれはアメリカ側が傍受解読した英文史料を基にしている。解読者の誤訳の可能性もあり日本語が一部不自然なものになっている。
<ソ連の査証>
三月の空襲で営業が出来なくなった、日本人会の食堂は間もなく再開する。日本楽器の佐貫は毎晩食事に出かけてゆき、自らの言葉によれば「ただ命をつなぐだけの献立」を食い、集まる日本人の顔を見ては安心して戻った。
そして十月中旬
「日本人会の食堂の控え室に座って、夕食の支度を待っていた。前のカイザー通りは静かで、時々市電の鳴らす鈴の音だけが、秋の風に乗って窓から入ってきた。そのとき事務員が電話だと知らせた。受話器を取り上げると、古川電工の技師、松尾敏彦の声で
“ソ連の(通過)査証が来ましたよ。私とあなたと、うちの川村だ”と知らせた。三年越しの希望が今満たされたが、すぐには信じることはできずに“嘘でしょう?”と答えたのであった。
松尾は激した声になり“なんで嘘など言うものですか。大使館から今知らせて来たんです。とにかく色々用意をしなければならないから、またあとで会いますよ”
受話器をおいて、椅子に腰を下ろすと、表の敷石の上を風に吹かれていく枯れ葉まで輝いて見えた。夕食を食べに入ってくる日本人ひとりひとりの顔が、みな自分の幸運を祝福しているように思われた。
しかし翌日、帰国の決まった三人で日本人会の食堂に座って打合わせを始めると、知り合いの日本人が側を通りながら“楽しい相談ですな”と嫌味たっぷりに言った。
“これはみなに悪いようだね。これからは別室で相談しよう。そうしないと恨まれる”と年長の松尾が気づいて提案した。」
かれらは急いで帰国の準備にかかった。そんなある日佐貫が日本人会の食堂に座っていると、顔だけ知っているある商社の社員が卓の前に来て
「今度の査証は全部取り消しになったそうです」と言った。
驚きで佐貫の心臓は止りそうであった。冗談を言うような親しい間柄ではない。かれはただ薄笑いを浮かべていた。これは結局悪意のデマであることが分かった。
佐貫は商社員を面罵する気にはなれなかった。この時期の日本への帰国は彼らの生死を別けるかもしれないほど重要な問題だったからだ。実際かれらは戦時中にベルリンから帰国した最後の民間人となった。
三月の空襲で営業が出来なくなった、日本人会の食堂は間もなく再開する。日本楽器の佐貫は毎晩食事に出かけてゆき、自らの言葉によれば「ただ命をつなぐだけの献立」を食い、集まる日本人の顔を見ては安心して戻った。
そして十月中旬
「日本人会の食堂の控え室に座って、夕食の支度を待っていた。前のカイザー通りは静かで、時々市電の鳴らす鈴の音だけが、秋の風に乗って窓から入ってきた。そのとき事務員が電話だと知らせた。受話器を取り上げると、古川電工の技師、松尾敏彦の声で
“ソ連の(通過)査証が来ましたよ。私とあなたと、うちの川村だ”と知らせた。三年越しの希望が今満たされたが、すぐには信じることはできずに“嘘でしょう?”と答えたのであった。
松尾は激した声になり“なんで嘘など言うものですか。大使館から今知らせて来たんです。とにかく色々用意をしなければならないから、またあとで会いますよ”
受話器をおいて、椅子に腰を下ろすと、表の敷石の上を風に吹かれていく枯れ葉まで輝いて見えた。夕食を食べに入ってくる日本人ひとりひとりの顔が、みな自分の幸運を祝福しているように思われた。
しかし翌日、帰国の決まった三人で日本人会の食堂に座って打合わせを始めると、知り合いの日本人が側を通りながら“楽しい相談ですな”と嫌味たっぷりに言った。
“これはみなに悪いようだね。これからは別室で相談しよう。そうしないと恨まれる”と年長の松尾が気づいて提案した。」
かれらは急いで帰国の準備にかかった。そんなある日佐貫が日本人会の食堂に座っていると、顔だけ知っているある商社の社員が卓の前に来て
「今度の査証は全部取り消しになったそうです」と言った。
驚きで佐貫の心臓は止りそうであった。冗談を言うような親しい間柄ではない。かれはただ薄笑いを浮かべていた。これは結局悪意のデマであることが分かった。
佐貫は商社員を面罵する気にはなれなかった。この時期の日本への帰国は彼らの生死を別けるかもしれないほど重要な問題だったからだ。実際かれらは戦時中にベルリンから帰国した最後の民間人となった。
<大空襲>
一九四三年の十一月二十二日の夜から二十三日にかけて行われた連合国の空襲は、戦争中を通じて最大の被害をベルリン市の中心部に与えた。それからの四日間で四十五万人が家屋を失った。邦人の体験した大空襲は次の様であった。まずは陸軍の花岡実業中佐である。
「菊地好一さんと二人で、ノレンドルフ陸軍事務所で、撞球(ビリヤード)をやった。ゲームカウントは一対一。たまたまラジオは警戒警報を告げた。もう一ゲームをやり僕が勝った。いよいよ空襲。近くのUバーン、ノレンドルフ駅地下二階に降りた。
ものすごい爆撃音が続き、解除後階段を登る。ガラスの破片で、足もとが滑る。目の前の陸軍事務所が燃えている。ポルチエ(管理人)は、ベッドなどを持ち出している。なぜ消火しないのかと叱ったが、水が出ないという。風呂桶に水を溜めることを忘れている。
三階が燃えている。火はまだ二階には来ていない。大使館と消防署へ通報しなければならない。日本陸軍事務所が燃えているのだ。レストラン.ハーネンの電話室に飛び込むが、電話不通。
一階のロッカーなどを破り、軍服、軍刀などを持ち出す。垣根越しに、ドイツ人人夫が来る。コニャック瓶を渡し、大型テレビなどを持ち出す。遂に、火は一階の隅に燃え移った。そこはコニャックなどの倉庫であった」
次は留学生千足高保の記録からである。
夕方、かれはカイザー通りの日本人会にいた。外交官補西村勘一とそこの食堂で夕食を摂った。西村は駐伊大使館に転勤することになっており、送別を兼ねたものだった。
食堂には学徒会の仲間で大使館の通商経済部嘱託として働いている菅博雄、商務書記官小室恒夫、大使館内のベルリン総領事館につとめる井口良二もおり、一緒にテーブルを囲んだ。食事を終えると、千足らは小室書記官の下宿に向かった。
かれらは小室の下宿に入り、ソファーや椅子に腰を下ろした。小室書記官は戸棚からコニャックの瓶とコーヒー豆の入った袋を取り出した。どちらもいまや煙草やチョコレートなどと並んで、配給経済下のドイツでは手に入りにくい品だった。これさえドイツ人に渡せば、ライヒスマルク紙幣ではどうにもならない事が可能になった。ガソリンも手に入れば、家の修理もすぐにやってもらえた。
空襲警報を聞き四人は小室のアパートの地下室に降りた。近くに落ちた爆弾の衝撃で千足らはソファーから投げ出された。電燈も消えた。外の様子を見てきた住人が階段を駆け降りてきた。
「この辺りが爆撃の中心らしい。ひどい火事だ。」
千足は外に飛び出した。真昼のように明るい。すぐ隣の通りでは火の壁が空に向けて直立している。石の家がこんなにたやすく燃えるものかと言う疑問が頭をよぎる。午後十時半警報がようやく解除された。街の中心一帯が炎に包まれていた。
井口と大使館に向かうことにした。広大な公園ティアガルテンに面した大使館なら大丈夫だろう、というのが二人の結論だった。直線距離にして二キロほどである。二人は歩きはじめるが、炎上する家や崩壊した家が道路をふさいでいる。その度に道を探して迂回しなければならない。それに炎の熱さと煙も行く手を阻む。
リュツォ広場で木に身をもたれかけて少し休んだ。大使館まであと六百メートルである。どうにかグラーフ.シュペー通りに達した。大使館はこの通りの左側である。しかし、左手の火の手がすごく、先に進めない。結局更に数百メートルも右の道まで迂回しないと、公園方面に向かうことが出来なかった。
こうして普段なら三十分とかからないところを三時間かけて、大使館に着いた。大使館は菊の紋章も無傷のまま、周囲の炎の光を身に浴びるように突っ立っていた。しかし左に続く総領事館の建物には爆弾が落ち、火災を起こした。周囲に止めてあった車も数台が破壊されていた。
結局この大空襲でかなりの日本人が焼け出されたものの、満州重工業のベルリン駐在員浅井一彦が大腿部骨折を負っただけで人的被害はすんだ。
また大使館の建物にはただ一つの爆弾が落ちただけで炎上もしなかったが、直後に専門家が見たところ、屋台骨が緩み、もはや長期にわたって使用することは出来ないという結果であった。館員たちは「ナチの建築とはこんなものか」とあきれたりした。
続く11月29日、古河工業の北島正元が大使館に出向くと、館員の多くは疎開していた。
「大使館のあの美しかった部屋、その昔”何しに来たか?”というような顔をして館員がふんぞり返っていた部屋はがらんどうになっていて、日本人会(事務所)が移っていた。そして帳面を一冊机の上に置いて、邦人の消息を書くようにしてある。またその他の部屋にはドイツの軍人が土足のまま入っている。
一九四三年の十一月二十二日の夜から二十三日にかけて行われた連合国の空襲は、戦争中を通じて最大の被害をベルリン市の中心部に与えた。それからの四日間で四十五万人が家屋を失った。邦人の体験した大空襲は次の様であった。まずは陸軍の花岡実業中佐である。
「菊地好一さんと二人で、ノレンドルフ陸軍事務所で、撞球(ビリヤード)をやった。ゲームカウントは一対一。たまたまラジオは警戒警報を告げた。もう一ゲームをやり僕が勝った。いよいよ空襲。近くのUバーン、ノレンドルフ駅地下二階に降りた。
ものすごい爆撃音が続き、解除後階段を登る。ガラスの破片で、足もとが滑る。目の前の陸軍事務所が燃えている。ポルチエ(管理人)は、ベッドなどを持ち出している。なぜ消火しないのかと叱ったが、水が出ないという。風呂桶に水を溜めることを忘れている。
三階が燃えている。火はまだ二階には来ていない。大使館と消防署へ通報しなければならない。日本陸軍事務所が燃えているのだ。レストラン.ハーネンの電話室に飛び込むが、電話不通。
一階のロッカーなどを破り、軍服、軍刀などを持ち出す。垣根越しに、ドイツ人人夫が来る。コニャック瓶を渡し、大型テレビなどを持ち出す。遂に、火は一階の隅に燃え移った。そこはコニャックなどの倉庫であった」
次は留学生千足高保の記録からである。
夕方、かれはカイザー通りの日本人会にいた。外交官補西村勘一とそこの食堂で夕食を摂った。西村は駐伊大使館に転勤することになっており、送別を兼ねたものだった。
食堂には学徒会の仲間で大使館の通商経済部嘱託として働いている菅博雄、商務書記官小室恒夫、大使館内のベルリン総領事館につとめる井口良二もおり、一緒にテーブルを囲んだ。食事を終えると、千足らは小室書記官の下宿に向かった。
かれらは小室の下宿に入り、ソファーや椅子に腰を下ろした。小室書記官は戸棚からコニャックの瓶とコーヒー豆の入った袋を取り出した。どちらもいまや煙草やチョコレートなどと並んで、配給経済下のドイツでは手に入りにくい品だった。これさえドイツ人に渡せば、ライヒスマルク紙幣ではどうにもならない事が可能になった。ガソリンも手に入れば、家の修理もすぐにやってもらえた。
空襲警報を聞き四人は小室のアパートの地下室に降りた。近くに落ちた爆弾の衝撃で千足らはソファーから投げ出された。電燈も消えた。外の様子を見てきた住人が階段を駆け降りてきた。
「この辺りが爆撃の中心らしい。ひどい火事だ。」
千足は外に飛び出した。真昼のように明るい。すぐ隣の通りでは火の壁が空に向けて直立している。石の家がこんなにたやすく燃えるものかと言う疑問が頭をよぎる。午後十時半警報がようやく解除された。街の中心一帯が炎に包まれていた。
井口と大使館に向かうことにした。広大な公園ティアガルテンに面した大使館なら大丈夫だろう、というのが二人の結論だった。直線距離にして二キロほどである。二人は歩きはじめるが、炎上する家や崩壊した家が道路をふさいでいる。その度に道を探して迂回しなければならない。それに炎の熱さと煙も行く手を阻む。
リュツォ広場で木に身をもたれかけて少し休んだ。大使館まであと六百メートルである。どうにかグラーフ.シュペー通りに達した。大使館はこの通りの左側である。しかし、左手の火の手がすごく、先に進めない。結局更に数百メートルも右の道まで迂回しないと、公園方面に向かうことが出来なかった。
こうして普段なら三十分とかからないところを三時間かけて、大使館に着いた。大使館は菊の紋章も無傷のまま、周囲の炎の光を身に浴びるように突っ立っていた。しかし左に続く総領事館の建物には爆弾が落ち、火災を起こした。周囲に止めてあった車も数台が破壊されていた。
結局この大空襲でかなりの日本人が焼け出されたものの、満州重工業のベルリン駐在員浅井一彦が大腿部骨折を負っただけで人的被害はすんだ。
また大使館の建物にはただ一つの爆弾が落ちただけで炎上もしなかったが、直後に専門家が見たところ、屋台骨が緩み、もはや長期にわたって使用することは出来ないという結果であった。館員たちは「ナチの建築とはこんなものか」とあきれたりした。
続く11月29日、古河工業の北島正元が大使館に出向くと、館員の多くは疎開していた。
「大使館のあの美しかった部屋、その昔”何しに来たか?”というような顔をして館員がふんぞり返っていた部屋はがらんどうになっていて、日本人会(事務所)が移っていた。そして帳面を一冊机の上に置いて、邦人の消息を書くようにしてある。またその他の部屋にはドイツの軍人が土足のまま入っている。
第九部以上