大学内部の腐敗について書いてきたが、すでに書いたように大学の腐敗が改善されないのは、眼に見えないからだ。これが、最大の問題だろう。


教育サービスが低下しても、それに不満を持つような学生は、中堅大学以下の偏差値の大学では、非常に少ないはずだ。自動車学校なら、教え方が下手で運転免許を取れないようなら、その学校は評判を落す。しかし、大学は、大学卒業レベルの能力のない学生でも、卒業証書を平気で出す。


そこで大卒の資格のない学生が大量生産される。こうした由々しき事態は、学生の側にあるのではなく、大学の側にあろう。

これまで書いてきたように、まともな教員を排除するような大学はあってはならないと思う。

大学に長年籍を置いたものとして痛切に思う。


これまで読んでいただいた方には感謝と共に、今後も大学のあり方に関心を抱いてもらいたい。



これまで大学の盗作やパワハラ、不当解雇などを述べてきた。


高等教育機関でこうしたことがまかり通るのは、信じられないことだが、それほど珍しいことではないのかもしれない。


トヨタで見られるように欠陥車が出れば、社運にかかわる問題になる。しかし、大学ではそうはならない。結果が見えないからだ。


出鱈目な教育をすれば、よい学生が育たないのはメーカーと同じことだと思う。


もっと大学の教員たちが、高い職業倫理を持つことを願ってやまない。

不当解雇された教授が裁判に全面勝訴したと昨日書いた。


ところで、そのあとの教授会にはあきれ果てた。

学部長や取り巻きの教授は、責任を問われると屁理屈をこね回した。


これは和解であって敗訴したわけではないという。誰だって知っているように民事はたいてい和解になる。

例えば、肝炎訴訟のように和解が成立すれば、患者の原告団は全面勝訴の札をたらす。和解という形で国が原告の主張を受け入れたからだ。

不当解雇の事件も、解雇された教授の主張を大学が受け入れたのだから、和解といつても大学の敗訴である。

それを認めない。


また、大学が訴えられたので、学部長が訴えられたわけではないなどという。詭弁もいいところだ。大学が被告になるのは、制度上の問題で、実際は大学の責任者は学部長なのだから。


これらの信じられない弁明がなんと法学の専門家から出たのだから、呆れるほかはない。

私に続いて何人かの教授が不当解雇されたと述べた。

そのうちの一人が裁判を起した。


結果は当然のことながら大学が全面敗訴した。共同通信はネットで「信義則違反で敗訴」というタイトルで報じた。


この結果は、大学内で行われたことが、社会では通用しないことを証明したわけである。


私が驚くのは、この結果を見て恥じることのない教授会のメンバーたちである。普通の神経を持っているのなら、自分たちの判断が、社会的に否定されれば、いやでも反省すると思うのだが。


いくら強引な小沢一郎でも検察が起訴すれば、幹事長は辞めただろう。しかし、大学は、司法は、自分たちの行為を否定してもほとんど何の痛痒も感じないようなのだ。信じられないことである。



私が不当解雇されたのに続いて、私と同様に学部長に批判的な教授が解雇された。そのうちの一人の教授の解雇理由は、教育に問題があったというものだそうだ。

おそらく、この教授は私よりはるかに学問業績があり、社会的な実績があるので、研究業績では、文句が言えないので、教育を持ち出したに違いない。


しかし、教育、つまり講義や学生指導は、外からは絶対分からない。学生からクレームがあっても分からない。私は、ある期間、学生相談室を受け持ち、学生の教員に対する苦情も聞いた。ひどい教員がいて、例えば、試験の採点に不満があるから、答案を見せて欲しいと頼んだところ、俺を信用しないのかと怒り、答案を見せないような教員もいた。しかし、学生名、訴えられた教員名は公にしないことになっているので、外部に洩れることはない。


教育を問題にしたというのは、明らかに丁稚あげである。解雇された教授が、具体的な問題を挙げてくれといったら、答えられなかったのを見ても明らかである。


そういえば、私も解雇されたとき、学生サイトに「やめさせろ」という投稿があった。私もすぐに「理由を示せ。誠実に答えるから」というコメントを付けたことがある。もちろん、なんの反応もなかったが。


さて、解雇された教授の一人は裁判に訴えた。次にこれを書く。