11月6日と7日 東京芸術劇場 プレイハウス

そんなにお客さんが集まるとは思えないのにプレイハウスを使うのは密を避けるためか?

一階にだけ100人ほど入っていた。

 

1)作・ジョン・カサヴェテスのオープニング・ナイト 2006年上演

2)作・ジャン・コクトーの声 2009年上演

3)作・シェイクスピアのじゃじゃ馬ならし 2005年上演

 

の順で見たが、「声」と「じゃじゃ馬ならし」がおもしろかった。

 

「声」は、途中までどういう舞台美術で演じているかわからなかったが、前面だけガラス貼りになっている直方体の箱、つまり高層マンションの一室らしきところに女性が一人、彼からの電話を待っているという態。ガラス窓を開けた時の車の音で高層らしいとわかる。

 

衣装が、ミッキーとミニーが肩を組んでいる絵柄を編み込んである水色のセーター。違和感を感じたが、これが後半、女性が失恋の痛手に絶望し状況が逼迫してくる様子が鮮明になると、崩れた精神のバランス、過去の甘い思い出など重複したイメージにつながりしっくりとくる。

 

14年前の舞台とはいえ、恋人からの電話が受話器を持つ家電話というのは不自然で、携帯の方は音楽を流し続けている設定。一人芝居となると、受話器の存在感も重要かな。

 

前半を見ている時には、薬師丸ひろ子の「Wの悲劇」が脳内再生されるような甘美な雰囲気も漂っていたが、薬を飲んで自殺未遂をしたことをほのめかすあたりから急激に追い詰められて、最後は部屋の外に出て、両腕を大きく広げたところで瞬時にライトが落ちて幕。飛び降り自殺したことが暗示される。

 

失恋の痛手とはいえ、自分で自分を追い詰めていく、そのスピード感に酔う。

 

「じゃじゃ馬ならし」はとにかく下品。パンツは下ろすわ、そこに頭突っ込むわという、青年たちの性欲を可視化しましたというような有様が続く。

そこにじゃじゃ馬・キャタリーナが飛び込んでくる。自分で白い冷蔵庫を引きずって来て、言いたいことをわめき散らし終わると、その中に入ってしまう。ペトルーチオがその冷蔵庫を横倒しにして底を指一本で撫でまわすところは、かなり淫猥。そんな場面が暴力的なまでに繰り返されて話が進む。

 

 

ここでもキャタリーナの妹がミニーの絵柄のセーターを着ている。「声」とあわせて考えてみると「かわいいわたしを見て」の記号か?

 

終幕近く、三人の夫が妻を呼び出す場面になると、従順だったキャタリーナの妹が上半身裸でピザを手づかみで食い荒らし初め、下品の代表のような有様になる。

反してキャタリーナが静かに品性をたたえて落ち着きを見せる。夫の言いなりになったというより、居場所をみつけたような有様。

 

激しく動き続けるので、UPになると女優のからだが擦り傷とあざだらけ。

 

精神的なスピード感と肉体的なスピード感が秀逸な2本だった。