お釈迦さまは実在する・しない論争(『仏陀』)
前に触れたヘルマン・オルデンベルグ著『仏陀』の邦訳を読んでいます。
(版元の表記はオルデンベルク。綴りは最後がGなのになあ)
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10917675574.html
原典の初版は1881年。
(でも1896年のアショカ王の石柱発見にも触れてあるので、
改訂版の邦訳なのでしょう)。
6800円もしたので泣けましたが、「ブッダ研究の世界的古典的」
と言われれば、やっぱり気が気ではありません。
まだ途中の仏伝部分までしか読んでないですが、すごく面白い、読んでよかったです。うたぐり深い仏教ファンの方にはおすすめです。マニア向けですけど。
というのは、うたぐり深い私としては、
仏伝について「どこまでが史実で、どこからが神話?」と、
いちいち気になってしまうんです。
創作が悪いということではなくて、ありのままを客観的に見たい、という点において。
オルデンベルグさんのは、そのへんを、切り分けて書いてくれてるんですね。
パーリ仏典にはこう書いてある、史実と証明はできないが、
当時のインド社会から考えて信じるに足ると私は思う、
でも信じるかどうかは読者の勝手です、というふうに。
オルデンベルグさんの判断は、膨大な知識が背後にありつつも、
最終的には「だって普通に考えて人間ってそうだろ?」
という洞察にあるように見え、その野太さが私は好きです。
この本が書かれた当時、「お釈迦さまが実在したかどうか」が、
いまだ議論の渦中にあったんですねえ。
フランスの仏典学者エミール・セナール(1847-1927)は、
「パーリ仏典に史実はまったくない。
仏陀は、太陽神信仰が生んだ神話である」と解釈していました。
それに対して、オルデンベルグは「いや、実在した」と主張します。
たとえば、お釈迦さまが菩提樹の下で悟りを開いたエピソード。
セナールは、古今東西の神話のパターンをもとに
「霊樹をめぐる仏陀とマーラの戦いであった。真の目的は樹であった」と、
ややこしい解釈したそうです。
対してオルデンベルグは、
「仏典を普通に読めば、そんな比較神話学を持ち出さなければ
いけないような奇異なところがどこにあるというのだ?
そもそも、当時のインドで、宿をもたない出家者が坐るのは
樹の下しかないだろうよ?」
と、しごく当然の反論をしています。
お釈迦さまが坐ったインドボダイジュはクワ科。
日本の寺などにある菩提樹はトチノキ科で別物なんですって。
そんな感じで、お釈迦さまを超人化した神話とごちゃ混ぜではなく、
かといって史実だけに矮小化するでもない仏伝だと感じました。
ただし、「最新の研究書ではないから、今日の立場からすればこの間に首肯し難き
個所も尠(すくな)くはなく、かつ余りに批評的ならんことを期した結果として、
冷静過ぎて却って皮肉と思わるる解釈もありて」(by訳者の木村泰賢先生)
という点はあります。
後半の「教理」部分はこれから読むので、また備忘録を書くかも。

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