8月下旬の台風予報の頃、親父から電話。『台風来るかもだからベランダ片付けておくように』我が家のベランダはそっちほど広くないから物を置いてないんだけど、うん、と返事。動画送った猫ムサシのことなど話す。
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9月初旬、お見舞いに。
かんちのクラブの予定表が前日に配られたんだけど1日しか休みがないってことで行ってきた。
お昼ごはん集まって食べようと予約していく。ハイパーМの声のデカさよ。予め親父に言ってなくて当日の朝もLINE来てたけど行くことは言わずにしてたら、
みんなでゾロゾロ病室に行くと親父はびっくりしすぎて目が点になってた。
この時、個室に空きがなくて3人部屋なんだけど『同室の2人の痰が絡まったときの音がほんとに嫌』と真似までして笑かしてくれた。本人も笑うほど体力少し回復。
母も『久しぶりに笑った顔見た。みんな来ると嬉しいんやろな』と。
かんちと親父が並んだ写真とるとかんちが巨人だった…。マジで小さくなっちまった親父。
かんちと母の体重同じってどうよ。身長も同じぐらいだけど、なんなん。
日曜日の面会時間はたった1時間。14時〜15時までって厳しくない?3人程度、15分程度と書かれてたけど1時間いた。
この頃はわりと眠れてごはんも食べれていた。
けれども、母には毎日電話で「帰りたい」と泣いてることはわたしは知ってるんだけど、わたしらにはいつもの親父でいたいんだな。
気を落としてる親父にわたしは何度となく頑張ってと言ってしまってた。寝る前にもう言うのはやめとこ、と思った。
頑張ったってこの先何があるんだと本人も分かってるんだから。
赤星氏の活動のサインつき車椅子が病院にあった。妙に感動する。
ほぼ毎日LINEで画像や動画やら送る。
9月中旬、退院。
5か月ぶりの家。
家についたと電話あったんだけど晴れやな高揚した声で嬉しそうだった。
猫ムサシどう?って聞くと『逃げてどっか行った。近寄らへん』と。あれだけ猫可愛がりして入院の原因つくった猫なのに。
最初の入院はムサシ追いかけて転倒して大腿骨骨折。親父はずーっと猫好き過ぎる人生。
運動会に向けてリレーの練習してる動画送ると折り返し電話。『みんな足速いのになんでかんちは足遅いねん』と。こっちが聞きたいわ。笑
退院後の生活を聞く。
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10月初めから下痢続いて母が匂いに悩まされてるとのことで介護用品の消臭のものを数種類とその詰め替えと一緒にどっさり送る。
10月中頃、次は便秘。
一難去ってまた一難。
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11月初旬、下痢と潜血。CT撮った結果、虚血性大腸炎。また下痢。
病院から帰った母とLINE。
その後父と電話。『ふらつくから危険やー』
ゆせの誕生日で電話出なくてムカついて、りーに電話かけたら横にゆせが居ておめでとうと言うとぶっきらぼうに話されたと苦笑いしてた。あとかんちのプリクラ画像送ったら『どれがかんちや?』と。笑
あとでコレがかんち、と矢印描いて送ってあげた。わたしも最初分からなかったプリクラ加工。
12月中旬、部屋から出るときに転倒。前とは反対側の大腿骨骨折。母があれほど転倒に気をつけてと言っていたのにと怒る。救急車の中から悲壮感と怒りと絶望感。
この骨折でもう駄目だとわたしも絶望感でいっぱいになったんだった。
その日の夜、ハイパーМと長電話。その後夜遅く、母が病院から家に着いたと連絡。
『明日手術。心臓が正常の半分も動いてないことと色々なことを考えて厳しい手術になるとの説明。寝たきりになるかもしれないら術後の経過が良くないかもしれない、若しくは最悪のとこになるかとしれないけど手術するのか?と聞かれたけど即決で承諾した。よかったかな?病院がイマイチなところに運ばれたから術後すぐ転院したい』と。
このときわたしは即決した母を非難した。手術すると決めるのは親父だと。しなきゃいけないことは分かってんのにどうしようもない憤りで母にあたった。
翌日の手術の朝、父から電話。
『歩けるまで頑張ってたのにまた戻ってもた。もう嫌や死んでもええわ。正月楽しみにしてたのにかんちにも会えんわ。もうすぐ手術やけどもう歩かれへんわ。日常生活よりも病院で過ごすためだけの手術やわ』
頑張ってとは言えず。何を言っていいか言葉も持たずうん、うんと聞くだけのわたし。
痛いから手術しか手段はないんだろうけどそこまでしなきゃならないのかな。QOLとはよく言うものののこれが如何ほどのQOLなのか。どう選択してもほど遠いものになるのなら好きな人たちと好きな場所で好きな時間を過ごす選択をしたいわけで。それすらも叶えられないんなんてね。
来なくていいと言われて紅葉見に行った日に行っとけばよかったと今でも後悔。
わたしが知らずにいる日々の生活だって母と父は大変なのに。
何かあると集まるより日常で集まるほうがいいんだよな。
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手術後2日目父から電話。この日はわりと長く話した。
手術が終わったこと、もう歩くことは出来ないだろうし気力もないけど車椅子でなんとか家に帰りたいと。
ハイパーМがお見舞い来てくれたと嬉しそうに話してた。最後はかんちに会いたい。お正月会うのを楽しみにしとくわと言って電話終わる。『かんち連れてきてや』
それが最後の会話になっちゃった。
このことを母に電話したらハイパーМがお見舞い後、父は母に泣きながら家に帰りたいと電話したてたそう。
いつもこれ。
わたしらの前と医療スタッフにはいつもの強い父、冗談まじりに饒舌に話す父、癖が強い父。外ではみんなに冗談言ったり毒吐いたり頼ったり拒否したり、喋るのが好きだった父。小憎くらしいちょっと無邪気な人。
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12月下旬、母から『心臓止まった。今病院へ向かってる。葬儀屋さんにタクシー頼まないと…』最後らへん聞き取れず電話切れた。
葬儀屋?この時わたしは理解してなくてハイパーМと電話してたんだけど、母がつくまで医師が心臓マッサージしてただけだった。所謂死亡伝えるためだけのやつ。
改めてどうなの?と電話すると『今、家に帰すタクシーの用意してる』と。
あかんかったのーーー!!??なんでなーん。そこからわたしずっと泣いてたわ。泣いてはもとに戻ってまた泣くの繰り返し。
亡くなったその日母は朝から父のもとへ。
母が病室で父と話してても何度も眠った父。前日調子悪くてその日に処置すると言われてたことがなぜか翌日に。点滴もつけてくれず母が説明求めてものらりくらり。
今思うと手術後、半分どころか心臓がほとんど機能してなかった父にモニター付いていたら。母が気に入ってなかった病院を転院出来てたら。
そしたらお正月生きてたかもしれない。お正月明けの誕生日をむかえられてたかもしれない。
母が父のいる病院から午後家に帰宅して夜20時半頃病院から連絡。
母がついて21:11分臨終。
母が言うには点滴はその時ついてたそう。そりゃそうだ。病院とはそういうもの。でもこの点滴は体内には入ってなかっただろう点滴。まじで今更感、なんよ。
たまたま夜のバイタルのときに発見されたんだな。心停止から結構たってたんだろうな。
普段ナースコールをこれでもかと気軽に押しまくる父。いつもスマホとナースコールを必ず母が取りやすい位置にセットして帰ってるのに鳴らすことなく個室でたった独り眠るように亡くなってたんだな。
来なくていいと言われたけどじっとしてられない。塾行ってるかんちを迎えにいってわたしらが実家へ着いたのは23時半頃。ずっと泣いてたわたし。
ちょうど父を乗せてきたお葬儀屋さんのタクシーが帰るところだった。
家にはわたしは知らないけれどわたしを知っている人らがいた。挨拶や誰?とかどーでもいいと父の所へ向うと、いるのよ小さくなった父が。
いつもの『よう。来たか』って声も聞こえないんだよなぁ。
祖母似だった父が祖父そっくりになっていた最近。眠ってるような顔もおじいちゃんそっくり。めちゃくちゃ小さいの。
おでこパチパチしても手をぎゅーっと握っても足をこそばしても無反応なんだよな。喋れよと言ってもさ。
年末年始ということで母がお葬儀屋さんと相談した結果、 お通夜まで数日間ドライアイスで家に居させることにしたそう。母がどうしても家に居させたいと。
あれだけ遺影はこの写真にしよと言ってた写真が見つからず。結局わたしの結婚式の写真を使うことに。
宗教のことはわたしは知らないんだけどうさんくさそうな宗教語ってた母。この家はお坊さんは3人呼ぶのが慣例だとか。1人でいいやん。
父だったら『3人もうるさい』と言うはず。なのにおじいちゃんのときもおばあちゃんのときもお坊さん3人呼んだしと、3人呼ぶことにする、と。絶対うるさいって言ってるよ。
また書くけどわたしは父っ子。普通では買えないものや色んなものを買ってもらったし連れ回したりした。母より父と出かけることを好んだ。
だけどかんちが生まれたとき仕事だからとお宮参りで実家帰るまでかんちに会いにこなかったことをずっと恨んでたわけよ。その恨みで長い入院生活中お見舞いも行かなかったわけで。
7月に心停止したときからだからわたしが関わったのは半年もない。
父とわたしは考え方がよく似てるんだけれどお葬式もお墓も意味のないものだとよく言ってた。
アイスの棒でいいという考え方も同じ。逆に母はきっちりガッチリするタイプ。父の周りを忙しなく無駄に動く母に鬱陶しいから動くなといいつつ、無駄だなと放っておいた。
というか退院して1か月も家にいれなかったんだよな。
あれやこれや毎日行くところややらなきゃ行けない毎日で父も限界だったと思う。毎朝喫茶店のモーニング食べて、海外旅行大好きで車が大好きでゴルフ大好きでオシャレが大好きだった父。
全て奪われた生活してる中でわたしは楽に死ねたらいいとだけ思ってたんだけど、まさか誰も見てない時間に個室で独りで死んじゃうなんて思ってもなかったわ。それ思うと悲しい。
最後のLINEはかんちのホルン、ハトと少年。
スタッフの人に『これ孫が吹いてるねん』と嬉しそうに話してたそう。
人が『大丈夫?』と声を掛ける相手は大概大丈夫じゃない人なんだなぁ。そして『大丈夫』と返してくる人も『大丈夫』じゃない人。
一生懸命、いち社会人として、いち父親として、いち夫として演じてた部分もあったんだろうな。わたしも子供を演じてた部分もあったしさ。
生老病死。
━━━━━━続く