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「ひめゆりの塔」を訪れた時に、戦前の沖縄に鉄道が走っており、汽車に乗って女学生が那覇の学校へ通っていたという資料を見た。鉄道が敷かれていたのも驚いたが、その頃の日本では女子教育はまだまだで、中卒者が多かったと思われる。そんな中で沖縄では女子教育が行われ、離島からも実家を離れて教育を受けに本島へ来ていた女子がいたことに、沖縄は日本の中でも先進地域だったのだと、教育を重要視していたのだと、裕福な家庭も多かったのだと…思ったことがある。
今日は、その女学生たちが乗っていた鉄道の資料館「軽便与那原駅舎展示資料館」を訪れた。小さな資料館だが、写真資料が多く展示されていた。資料館の裏には、その頃からの建物の柱が9本残っている。その向こうに本来ならレールが走っていたのだが、発掘されたにも関わらず、取り出すこともできず、また埋められたという。今でも地中にはレールが埋まっているのだろうか?
さて、なぜこの与那原に鉄道が敷かれたのか?当時鉄道は、那覇〜嘉手納、那覇〜糸満、そして那覇〜与那原の3路線があり、どの線も貨車と客車があった。嘉手納も糸満、与那原もサトウキビ栽培や港として賑わった街である。与那原は特に物資の輸送のために重要だったらしい。与那原には山原船が着く港があり(現在は東浜の埋め立て地)、多くの木材等が山原から海上から運ばれ、それを那覇や首里に輸送するために鉄道が敷かれたそうだ。与那原という町は、海に面しており、那覇や首里にいい具合に近く、また首里の士族が落ち延びてきて、地理的にも文化的にも栄えることができた。
平成の市町村合併で多くの町村がなくなって行った中、沖縄は今でも市は少なく、町村が多い。離島ならわかるが、本島でもそうである。その時に、今の南城市と与那原町との合併の話が出たそうである。しかし、合併すれば市役所等の施設は全て南部の南城市方面に作られる。重要施設を与那原町の場所に作ることを条件にし、結局合併話は白紙になり、現在に至る。与那原町としては、昔から港町として栄え、文化も発達したというの誇りがあったんだろう。それくらい与那原町に人たちには自負があるらしい。

「資料館裏の9本の柱」2024.7.22